映画『ブラック・クランズマン』



 映画『ブラック・クランズマン』は、スパイク・リー監督の心情を明確に表している。本作の舞台は1970年代半ばのコロラドスプリングスだ。同地初の黒人警官ロン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)と白人警官フリップ(アダム・ドライヴァー)が、白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)に潜入捜査する様子が描かれる。脚色を加えているが、ロン・ストールワースが2014年に発表の著書『Black Klansman』を原作とした実話ベースの作品だ。製作でジョーダン・ピールが参加したことや、第91回アカデミー賞で脚色賞を獲得するなど、話題性も非常に高い。

 本作はその話題性にふさわしい内容だ。過去の出来事を介して、現在も蔓延る差別を上手く皮肉っている。白人のレイシストに成りすますロンの口車に気づかないKKKなど、笑えるシーンも多い。人種差別をテーマにした作りはシリアスだが、傍目から見ても滑稽なKKKの論理を容赦なくおちょくるやり方は、痛烈なブラック・コメディーと言える。
 だが、それで終わらせないのがスパイク・リーだ。いまも世界中でおこなわれているレイシストやオルタナ右翼による行進の映像を劇中で使用し、1970年代半ばからほとんど状況は変わっていないことを示唆する。「憎しみに居場所はない」という言葉が飛びだしたりと、本作には切実さも滲む。

 『風と共に去りぬ』や『國民の創生』を引用しているのも見逃せない。映画史に残る名作として語られるこの2作は、白人至上主義を肯定する作品でもあるからだ。前者は奴隷制度の正当化、後者はKKKを英雄として描く点が批判されている。劇中のセリフにも登場するブラックスプロイテーションも含め、黒人のステレオタイプを広めた映画への怒りをリーは隠さない。

 興味深いことに、この怒りは“作品に罪はない”といった論理への疑問としても機能する。“不品行な作り手によるもの=排除”という短絡的思考は確かに問題だ。しかし、その作品が差別や暴力を扇動するものだった場合、“作品に罪はない”と言いきれるだろうか? たとえば『國民の創生』は、KKK復活のきっかけになった作品でもある。1800年代半ばにまで遡れる歴史を持つKKKは、1910年代初頭の時点ではほぼ消滅していた。だが、1915年に『國民の創生』が公開されると、状況が変わる。同年にこの映画を観たウィリアム・ジョゼフ・シモンズが、KKKを復活させるのだ。それ以降、KKKが黒人への凄惨な暴力行為を極めていったのは有名な話だろう。このような差別と映画史の関係性も本作は匂わせるが、そんな背景を知ったあとでは、“作品に罪はない”と言いきれる傲慢さを持つことは難しい。差別に晒される心配をしなくていい特権性に無自覚であれば別だが。

 そうした傲慢さと距離を置く姿勢も、本作では際立つ。それが顕著なのはロンとフリップの距離感だ。黒人のロンだけでなく、ユダヤ人であるフリップも、KKKが反ユダヤということで苦労する。フリップは、出自を知られまいと試行錯誤するなかで人種についても考えるようになるが、それでロンとフリップは互いの痛みがわかる仲に...とはいかない。2人は最後まで同僚という立場で接しているのだ。
 ロンとフリップの適切な距離感は、リーの安易な共感への警戒心をうかがわせる。差別を受ける立場という点が一緒でも、黒人とユダヤ人では受け方が異なるのだから、そうなるのも当然だ。それをわかっていないと、ジョーダン・ピールが監督を務めた『ゲット・アウト』でも描かれる、人種差別主義者でない白人の無自覚な暴力と同じことをしてしまう。この思慮深さからは多くを学べる。



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