わたしの2017年


 2017年も、フリーのライター/編集としてなんとか活動できました。ライター活動を始めたのが2010年だから、この仕事は今年で8年目ということになる。正直、ここまでやれるとは思っていなかった。毎月どこかで書かせてもらい、それで得たお金で生活をすることに、いまだ馴れません。
 読者から感想をいだたくことも、素直に嬉しいと思いつつ、居心地の悪いが拭えない。主にクラブ、ライヴハウス、レコード店などで感想を聞かされますが、「そこまで真剣に読んでくれるとは......」という驚嘆を抱いてしまう。
 そのうえで言えば、フリーのライター/編集生活もなかなか悪くありません。大変なこともあるけれど、それ以上の面白さもある。この面白さを享受できるのも、支えてくれる多くの人たちのおかげです。あらためて感謝を申しあげます。

 多くの人たちと触れあうなかで、興味深いこともいくつかありました。特に印象的だったのは、29歳の筆者より若い編集者やリスナーの感覚。追っているライターの話をすると、日本の人が出てこないことも多々あるのです。
 とはいえ、驚愕の事実かと言われたら、そうでもありません。いまは国外のメディアにアクセスするための壁はとても低い。カルチャーを熱心に追っている人ほど、日本以外のWebサイトや雑誌も熟読し、そこから得た情報を血肉にしていく。日本のメディアが唯一の入口ではなくなり、“日本のライター/海外のライター”と分けないでメディアに触れる人も珍しくなくなった。他国語の記事を翻訳したものも至るところで見かける。そんな現在において、海外のライターが一番印象に残るというのは不思議なことじゃないでしょう。私も、社会状況とエンタメを絡めて語ることに定評があるジェシカ・プレスラーなど、海外のライターに刺激を受けることは多いですから。

 そうした変化をふまえると、日本のライターも書き方を変えなきゃいけないかも? と感じます。たとえば、ゴールデン・ティーチャーのサム・ベラコーサにインタヴューをしたとき、サムは次のようなことを語ってくれました。

「最近の若いアーティストは、グラスゴーの立ち位置を認識している。グラスゴーが世界都市だという認識があるから、観客はグラスゴーにいる人たちだけじゃないということが分かっている。それをふまえて、若いアーティストは世界中の人たちに聴かせるための音楽を作っている。それはとても素晴らしいことだと思う」

 この言葉は、グラスゴーの音楽シーンについて訊いたときの答えですが、ライターとしての心構えを考えるうえでも参考になると思います。先に書いた若い編集者やリスナーの変化も考慮すれば、ライターも日本だけを意識して書いている場合ではないのかもしれません。

 書き方を考えるといえば、2017年は大雑把な枠で括った語り口の暴力性をこれまで以上に意識しました。とりわけ考えさせられたのは、映画『ムーンライト』を巡る言説。バリー・ジェンキンスによるこの作品は、男性性、貧困、人種といった要素も複雑に絡んだ内容なのに、“ゲイ映画” “LGBT映画”と矮小化されることが多かった。確かに劇中では、主人公・シャイロンの同性愛的経験も描かれますが、シャイロンは一度も“ゲイ”、あるいは“バイ”と自称していない。いわば『ムーンライト』は、同性愛的経験も含めた、揺れ動くアイデンティーを描いた作品なのです。もちろん、セクシュアル・マイノリティーの観点から考察することも有意でしょう。しかし、本人が自称していないにも関わらず、シャイロンを“ゲイ”や“バイ”と規定し、それを前提に“ゲイ映画” “LGBT映画”と恣意的に括ることの暴力性に、私たちはもっと注意を向けたほうがいい。この暴力性こそが、シャイロンを抑圧するものなのだから。

 私が今年書いたなかで、その注意が顕著に表れているのは、ブログ記事の『デイヴ・シャペルとアジズ・アンサリ、知性を捨てないコメディアンの矜持』と、アノーニ『Hopelessness』のライナーノーツです。とりわけ前者は、“差別や偏見に晒されがちな人たち”ではなく、黒人のデイヴ・シャペルとインド系のアジス・アンサリが見せる視点の違いを強調しました。今後もこうした語り口は増やしていきたいし、増やさなければいけないですね。

 「ライターとして紡ぐべき言葉は何なのか?」と常々考えていますが、それをより深く意識しなければいけないと思わせる2017年でした。それではみなさん、よいお年を。

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