ドラマ『トップボーイ』 シーズン3


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 2010年代の名作ドラマTOP10を選んでくれと言われたら、あれやこれやと悩むだろう。それでも、真っ先に思い浮かぶ作品はいくつかある。イギリスのクライムドラマ『トップボーイ』は、間違いなくそのなかの1つだ。

 このドラマは2011年にシーズン1、2013年にシーズン2がチャンネル4で放送された。物語の中心人物は、イースト・ロンドンのサマーハウス団地を拠点とするドラッグディーラーのダシェン(アシュリー・ウォルターズ)とサリー(ケイン・ロビンソン)。彼らとその仲間の生活を描きつつ、イギリスの社会問題も取りいれた内容は人気を集めた。
 筆者が『トップボーイ』に惹かれたのは、暴力や犯罪とは無縁の生活に憧れを抱きながらも、それを実現させることが難しい社会構造を浮き彫りにしているからだ。ドラッグ中毒の両親にかまってもらえず、路上で物乞いをする子ども。生まれてくる子どものため、大麻栽培に精を出す妊婦。貧困、ネグレクト、ジェントリフィケーションなど、『トップボーイ』にはさまざまな問題が主因となり、犯罪に手を出すしかなかった者たちが登場する。そうした内容に見いだせるのは、犯罪行為に及ぶ者を安易に断罪しない洞察力と、いびつな社会の仕組みに向けた批判だ。

 そんな『トップボーイ』のシーズン3がネットフリックスで配信された。主演は引きつづき、アシュリー・ウォルターズとケイン・ロビンソン。デイヴやリトル・シムズなど、新たなキャストにも興味深い面々が多い。
 舞台となるのは、前シーズンから6年経ったイギリス。ダシェンはジャマイカ、サリーは刑務所からロンドンに舞いもどることで、物語は大きく動きだす。2人がいない間に、イースト・ロンドンでは別の若いドラッグディーラーがトップに君臨していた。街並みや勢力図の変化に戸惑いを抱きつつも、ダシェンとサリーは生きるために再びトップを目指し、ドラッグディーラーの仕事に腐心する。

 過去の2シーズンと同様、シーズン3もミニマリズムが貫かれている。音楽はほとんど流れず、派手な演出も皆無。登場人物たちの会話や表情を軸に、物語の起伏を作りあげる。そうして撮られるのは、感情の機微が滲む詩的な映像だ。
 ミニマルだからといって、演出の妙に欠けているわけではない。特に目を引いたのは、セックスの描き分けだ。ジェイミー(マイケル・ウォード)とリジー(リサ・ドワン)の場合、ポルノ的な描写がこれでもかと強調される。ジェイミーにリジーが跨がり、腰を振りながら喘ぐ。だが、劇中でリジーが何度も言うように、それは愛情を伴うものではない。ダシェンとサリーに捕まったときも、リジーはジェイミーを子ども扱いする言葉を吐く。このような関係性からは、あくまで性欲のはけ口として、ジェイミーとサリーは求めあっているのがわかる。そうしたインスタントな繋がりを表すため、ポルノ的な描写を前面に出すのだ。

 ダシェンとシェリー(リトル・シムズ)の場合は、そうした描写をしないだけでなく、直接的な性描写すらない。ある晩、シェリーの家を訪ねたダシェンは、シェリーとハグをする。そこから朝のシーンに切りかわり、台所でコーヒーを探すダシェンの様子が映しだされる。しかし、コーヒーはなかったため、仕方なく2人分の紅茶を入れ、寝室に向かう。そこで待っているのは、ベッドに寝そべるシェリーだ。その安心しきった表情から、充実した一夜を過ごせたのだと想像できる。
 このような見せ方は、ダシェンとシェリーの間に愛情があることを示す。共に過ごした一夜を彩った親密感も漂わせ、観ているほうが暖かい気持ちになるシーンだ。

 ぶれるカメラやカット割りの少なさも過去2シーズンから受け継がれている。この点は、撮影スキルの拙さに見える人もいるのだろう。だが、筆者はイギリスのフード・フィルム(Hood Film)史を見いだし、思わず笑みを浮かべてしまった。フード・フィルムとは、ストリート・ギャング、貧困、人種差別といった要素を盛り込んだ映画のこと。2000年代のイギリスでは、この手の興味深い作品が多く作られた。アシュリー・ウォルターズの才能を世に示した『Bullet Boy』(2004)や、チャヴと呼ばれる貧困層の不良を描いた『Kidulthood』(2006)などが代表的作品だ。
 一方で、当時そうした作品は、いまほど商業的に大きな期待を持てなかった。ゆえにほとんどが低予算で作られ、ハリウッド大作みたいに何十台ものカメラを使うこともできない。その影響か、長回しや少ないカット割りが顕著な作品が目立ち、それがいつしかUKフード・フィルムの味になった。カメラのぶれは底辺で生きる者の切羽詰まった息づかいを表像し、長回しで映しだされる表情には複雑でリアリティーのある情感が宿っているのだ。
 この味はシーズン3でも楽しめる。今シーズンからネットフリックスの制作になり、予算は増えたはずだ。それでもカット割りは少なく、カメラもぶれる。そうすることで、独特の風合いを醸しているのだから、変に他の人気ドラマを模倣しないで大正解だったのだろう。

 これまで以上に社会問題が反映されているのも、シーズン3の特徴である。とりわけ目立つのは、差別と貧困の問題だ。随所で移民排斥を訴える落書きが登場し、サリーも差別を受ける。ところが、そういったシーンはあっさり描かれる。だがそれは、差別問題の掘り下げ不足を意味していない。あえてあっさり描くことで、差別は空気の如く日常的に浴びせられるのだと雄弁に示しているからだ。ダシェンやサリーはそういう世界に生きているのだと。
 貧困問題は、サリーと行動を共にするジェイソン(リッキー・スマート)が象徴的な存在だ。特にいたたまれないのは、ドラッグ中毒であるジェイソンの母親のエピソード。電気を止められ、寒さをしのぐためオーブンで暖まろうとした際、足を火傷してしまうのだ。しかも、火傷した足から感染症と敗血症になり、最終的には足が腐って亡くなった。それこそサリーのように、マジかよ?と驚く話だ。しかし、話を聞いたサリーは笑っていない。そうなったのも、電気が止まるほどお金に困っており、医療費も出せなかったせいだと理解しているからだ。言葉には出さないが、同じように底辺で生きてきた者として、感覚的に背景を嗅ぎ取ったのだろう。だからこそ、サリーはジェイソンのことを何かと気にかけるのだ。その関係性は、殺伐とした世界に咲く一輪の花みたいに輝いている。

 だが、輝きは無残にも奪われてしまう。ある日、サリーとジェイソンが身を寄せていたアパートで、放火事件が起きる。アパートには移民が住んでおり、そこへレイシストが火を放ったのだ。火の手に気づいたサリーは、なかなか開かないボロい窓を何とかこじ開け、脱出できた。しかし、逃げ遅れたジェイソンはアパートから抜けだせず、サリーの目の前で炎に包まれる。
 このシーンが想起させるのは、グレンフェル・タワー火災だ。2017年、貧困者や移民が多く住むロンドン西部の公営住宅で発生し、70人以上が亡くなった事件である。以前から住民は防火対策の不備を訴えていたが、行政は無視した。そのため、事件後には行政を批判するデモもおこなわれた。こうした背景を持つグレンフェル・タワー火災は、社会的弱者を気にかけない人々の非情さを示す、痛ましい出来事だ。

 『トップボーイ』シーズン3は、その非情さを私たちに突きつける。そういう意味では重苦しい作品と言えるかもしれない。とはいえ、まるでパンドラの箱のように、さまざまな災厄の中に一筋の光があるのも重要なポイントだ。2人の弟のため、死と隣りあわせの賭けを積みかさねるジェイミーの焦燥。常に緊張感を伴うハードな道しかないと自覚しながらも、妻や娘との平穏な暮らしを夢見てしまうサリーの想い。これらの姿に、唾を吐きかけようと思う者はいないはずだ。そんな人々の良識を信じ、世界が良い方向に変わるよう祈る。そうした切実さをシーズン3は滲ませる。



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