映画『万引き家族』



 是枝裕和監督の最新作『万引き家族』を観て真っ先に思い浮かんだのは、“是枝監督の映画だ”という凡庸な8文字だった。本作の物語は、父・治(リリー・フランキー)、母・信代(安藤サクラ)、祖母・初枝(樹木希林)、息子・祥太(城桧吏)、信代の妹・亜紀(松岡茉優)の5人家族の姿から始まる。5人の生活は困窮しており、そのため足りない日用品や食材は万引きして補填するのがあたりまえとなっている。
 ある日、治と祥太は、近所にある団地の廊下で震える少女・ゆり(佐々木みゆ)を見つける。治は、ゆりが虐待を受けているのでは?と疑い、家に連れて帰る。最初はどう接したらいいか戸惑う5人だが、傷だらけのゆりの体を見た信代は娘として迎えるなど、5人とゆりの絆は少しずつ深まり、5人家族から6人家族へとなっていく。こうしてそれなりに幸せな生活を送っていたが、そこへ6人をバラバラにする事件が襲いかかる...。

 このようにさまざまな観点から“繋がり”を見せるのは、是枝監督の十八番だ。ネグレクトされた子供たちを描いた『誰も知らない』や、三姉妹と腹違いの妹が交流を深めていく『海街diary』など、これまでも是枝監督は“繋がり”にフォーカスを当ててきた。それもあって筆者の脳裏に、“是枝監督の映画だ”という凡庸な8文字がよぎったのだ。

 本作は、その“繋がり”と社会性の結びつきがいつも以上に強いという意味で、これまでの作品とは少々毛色が異なる。たとえば、6人が置かれている状況からは、生活保護受給額を年160億円削減するというニュースや子供の貧困といった、報道番組でも頻繁に見かける問題を容易く連想できる。治がケガで働けないため、生活費を稼ぐ目的で釣り竿を万引きするシーンも、子供に釣り具セットを万引きさせた両親が逮捕されたという2015年の事件を彷彿させる。

 とはいえ、そうした社会問題を告発するのが目的でないことは明らかだ。常に視線は、世間一般では非常識とされる繋がりを持った6人と、その6人を引き裂こうとする常識やルールがぶつかることで生じる摩擦に向いている。
 そのうえで言うと筆者は、常識やルールの残酷さに晒される6人にコミットしてしまう。足りないものは万引きで手に入れ、結果的に誘拐という形でゆりを保護するなど、6人は善悪や道徳心で繋がっているわけじゃない。治は万引きしか子供に教えることができない男だし、亜紀は見学クラブで性を売っている。こうした上辺だけを見れば、軽蔑すべき6人なのかもしれない。だが、万引きによって家族旅行に行けるつかの間の幸せや、亜紀が客の4番さん(池松壮亮)と繋がりを見いだす瞬間の気持ちは本物だ。
 6人は、道徳や常識といった理知的なものではなく、自分たちと似た人に寄り添うという感情や本能によって繋がる。これはどっちが正しいという優劣の問題ではなく、6人はそうやって生きてきたのだ。もっと言えば、そういう生き方しかできなかった。

 そんな6人を観客たちは、傍観的立場から見つめることになる。この立場を強めるのが、劇中でたびたび用いられる見下ろすようなロングショットだ。なかでも、見えない花火を見上げるシーンで使われるそれに、心が締めつけられた。あの瞬間、6人と観客は目を合わせることもできるが、そこには見えない壁がある。なぜなら、文字通り見えない花火を見上げるシーンだからだ。当然、何かしら遮るものがあるのだろうと想像できる。
 このことに気づくと観客は痛感するだろう。見えない壁は、社会から逸脱した(あるいはさせられた)6人と、その6人を半ば見捨てた社会との間にそびえ立つものなのだと。そして、その壁を乗り越えて向こう側と繋がるのは、簡単ではないということも。もちろん観客は社会側の人間だ。安いとは言えないチケット代を払い、万引きしないと生活も難しい家族を観ているのだから。

 このような痛感は最後まで尾を引くことになる。警官の前園(高良健吾)と宮部(池脇千鶴)を中心とした社会側によって、6人の繋がりは徐々に引き裂かれていくからだ。それを強調するように本作は、どこか物哀しさを漂わせるゆりの表情をアップで映し、強引にぶつ切るような幕切れを迎える。
 ゆりの表情に対する解釈は観客の数だけあると思う。だからこそ、あえて筆者の主観を多分に込めて言うと、あのラストシーンは『誰も知らない』のゆきを想起させる、不穏な雰囲気を漂わせるものに思えた。駄菓子屋の店主・川戸(柄本明)に、妹(ゆり)に万引きをさせてはダメと諭された祥太の“目覚め”は、ゆりのことを想う良心だったのだろう。だが、その良心があのラストシーンに結びついたと思うと、あまりに無慈悲だと感じてしまう。社会側のルールや常識からすれば、ゆりは救われたのかもしれない。しかし、あのゆりの表情を見るかぎり、とてもそうは思えなかった。



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