自分の好きなように生きることがいまだ難しい現実を前に、理想や希望を描けない表現などに果たして価値があるだろうか? 〜ドラマ『ブラック・ミラー』シーズン3の「サン・ジュニペロ」によせて 〜



 ドラマ『ブラック・ミラー』は、1話完結のアンソロジー・シリーズだ。テクノロジーの発展が生活に影響を及ぼしたら...という“if(イフ)”の物語と、ブラックユーモアたっぷりの風刺を特徴としている。これまで3シーズン制作され、シーズン1と2はイギリスのチャンネル4、そしてシーズン3はNetflixが制作と配信をおこなっている。すでにシーズン4が来年配信されることも決定しており、しかもそのうちの1エピソードをジョディ・フォスターが監督するなど、話題性も十分。日本ではあまり知られていない作品だが、近いうちに多くの人が知ることになるのは確実だろう。


 そんな『ブラック・ミラー』のなかでも特に面白い話が、シーズン3の第4話「サン・ジュニペロ」だ。本作は、1987年のとある街で、ヨーキー(マッケンジー・デイヴィス)とケリー(ググ・バサ=ロー)が時代や場所を超えて互いに求めあうラヴ・ストーリー。「時代や場所を超えて」というところに引っかかった者もいると思うが、文字通りふたりはさまざまな時代を行き来するのだ。1980年代はもちろんのこと、1990年代や2000年代も登場する。その時代ごとに人々のファッションは変化し、流れる音楽も変わる。ちなみに音楽は、「サン・ジュニペロ」のテーマ・ソング的なベリンダ・カーライル「Heaven Is A Place On Earth」をはじめ、カイリー・ミノーグ、ピクシーズ、アラニス・モリセット、ザ・スミスなど、かなり趣味の良い選曲になっている。このあたりは、グザヴィエ・ドランやアナ・リリー・アミルプールといった、ポップ・ソングに登場人物の心情を仮託することも多い映画監督が注目されている現況と共振する。


 さて、そろそろ時代や場所を超える点について話そう。ヨーキーとケリーはサン・ジュニペロという街で遊ぶのだが、実はこの街、コンピューターによって作られた仮想現実である。そこでヨーキーとケリーは出逢い、関係を深めていくのだ。
 ではどうやって、サン・ジュニペロに行くのか? 作中ではその方法に精神転送が用いられている。精神転送とは、人の心を何かしらの人工物に移す行為のことで、サイエンス・フィクション(SF)でよく見かけるものだ。シンギュラリティーで有名なレイ・カーツワイルは可能だと明言しているが、本当に実現できるかはまだハッキリしていない。とはいえ、SF的世界観を特徴としてきた『ブラック・ミラー』シリーズに最適な設定なのは間違いなく、ここは脚本を務めたチャーリー・ブルッカーの手腕に拍手すべきだろう。事実、作中でも精神転送は違和感なく織りこまれ、ドラマを盛りあげる要素にすらなっている。現実世界で議論されている話題を組みこむ上手さは『ブラック・ミラー』シリーズ全体に見られる魅力だが、そのなかでも「サン・ジュニペロ」は群を抜いている。


 現実世界で議論されているといえば、本作はセクシャリティーの要素も取りいれている。具体的に言うと、ヨーキーはレズビアンであり、ケリーはバイ・セクシャルだ。そのふたりが惹かれあい、自由に愛しあっている姿は希望で満ちているが、それだけじゃないのが本作の興味深いところ。たとえばヨーキーは、21歳のとき両親にカミングアウトしたが、「娘が同性愛者なんて許せない」と言われてしまった。傷心のヨーキーは家を飛びだすが、そのとき車に轢かれ全身不随になってしまう。それ以来ヨーキーは、40年以上寝たきりになっている。しかし意思の疎通は可能なため、“ビジター(訪問者)”としてサン・ジュニペロに行けるというわけだ。
 さらにヨーキーは、安楽死をおこない、サン・ジュニペロに永住することを望んでいる。現状のままでは週末だけしかサン・ジュニペロに行けないからだ。安楽死を選び、サン・ジュニペロに心をアップロードするためには、患者、家族、医師のサインが必要だが、ヨーキーの家族は宗教上の理由で安楽死を認めない。こうした葛藤も、「サン・ジュニペロ」をより深く理解するうえで見逃せないポイントだ。


 ヨーキーの設定からは、チャーリー・ブルッカーの思想を読みとることも可能だ。過去にブルッカーは、キリスト教福音派団体の「非キリスト教徒は永遠に地獄で焼かれる」というバス広告に対抗した無神論者バスキャンペーンに賛同するなど、保守的な価値観に疑問を投げつづけている。キリスト教福音派にとって、同性愛者婚反対や生命重視(中絶反対や安楽死/尊厳死反対)は重要な問題でありつづけているが、そうした思想に対するひとつの考え方が「サン・ジュニペロ」である、とも言えなくないのだ。
 ちなみに筆者は、ヨーキーのモデルはブリタニー・メイナードじゃないか? と推察している。ブリタニー・メイナードは、余命6ヶ月の告知を受けて自ら尊厳死することを宣言し、それを実行した女性である。ブリタニーはCNNに、「他の人に尊厳死を選ぶべきだと言うつもりはない。でも私に対して、あなたはこの選択に値しないと言い渡し、何週間も何ヶ月間も心身のすさまじい痛みに苦しむべきだと指図する権利が、だれにあるだろう」というコメントを寄せているが(※1)、おそらくブルッカーもこれに近い考えではないかと思われる。自ら安楽死を選んだヨーキーが、最終的には幸せに見えることからもそう解釈できる。




 また、ケリーの逡巡も“家族”という観点からとらえると興味深い。夫と49年間も一緒に過ごしたケリーは、余命3ヶ月と宣告されている。ただ、3ヶ月を過ぎても生きており、作中の言葉を借りれば「残り時間が分からない」ということらしい。それでも確実に死が迫るなか、ケリーはサン・ジュニペロでヨーキーと出逢い、惹かれてしまうのだ。
 ケリーがヨーキーを想う気持ちに嘘はないだろう。ヨーキーの “脱出” を手伝うために、彼女と結婚をするのだから。それでもケリーには、夫と過ごした長い時間がある。そのときに育んだ絆も嘘ではないのだ。しかし最終的にケリーは、ヨーキーとの愛を選ぶ。自分の気持ちを偽ることはできなかった、ということかもしれない。
 そして、ケリーの選択にもやはりブルッカーの思想がちらつく。男女間の結婚を経て女性と結婚するという流れには、同性愛者婚反対を主張する者たちに対する批判的メッセージが込められているように思えるからだ。


 このように本作は、娯楽性あふれるたくさんのときめきの裏に、多くの問いかけや議論が渦巻いている。これについては物申したい者も少なくないだろうが、そのうえで筆者は、「サン・ジュニペロ」を観て深く感動した。“脱出”を望むヨーキーの気持ちにはコミットできるし、その気持ちに応えるケリーの寛容さも素晴らしいと感じた。もっと言えば本作は、自らの気持ちに正直であろうとするための勇気と希望をくれる。こう言うと、理想が過ぎるなんて嘲笑も飛んできそうだが、自分の好きなように生きることがいまだ難しい現実を前に、理想や希望を描けない表現(フィクション)などに果たして価値があるだろうか? “クソだ”というのは簡単だ。しかしそのうえで表現には、そんなクソみたいな現実を超越する理想、夢、希望、未来を描いてほしいと筆者は願う。なぜなら表現は、現実を追認するだけの道具ではなく、現実と戦うための武器になりえるからだ。



※1 : CNNの記事『脳腫瘍の米女性、予告通りに「尊厳死」を実行』を参照。http://www.cnn.co.jp/usa/35056041.html

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