有害な男性性を克服するための処方箋 ドラマ『エリック』


ドラマ『エリック』のポスター

 Netflixドラマ『エリック』は、野心的な作品だ。『モンスターズ・インク』(2001)のサリーみたいな風貌のエリックがヴィンセント(ベネディクト・カンバーバッチ)の妄想として現れるなど、全体としては子供向けの絵本みたいな雰囲気が目立つ。それでいて、ヴィンセントが息子のエドガー(アイヴァン・モリス・ハウ)との距離を縮めるまでの物語を軸にしつつ、構造的な人種差別、同性愛嫌悪、ホームレス問題といった事柄への風刺を込めた内容は大人向けの寓話と言える。

 さまざまな側面を持つ『エリック』だが、総花的な作品にありがちな問題を解消できていない。可能な限り要素を詰めこもうとした結果、ほとんどのストーリーラインが中途半端に終わってしまっている。どうとでもとれる、とは言わないが、社会性を意識していると示すためだけに、ポリティカルな視点を取りいれたように見えてしまう。全6話と短くない尺をもらいながら、この社会問題についてはこう見ているという視座がわかりにくいのは、もやもやする。
 突如失踪したエドガーをヴィンセントが探すという展開は、ミステリーの緊張感を醸してくれる。しかし、物語中盤に差しかかる前にその緊張感は薄れてしまい、ミステリーとしての魅力を固めるまでには至らない。これも消化不良の印象を拭えず、もったいないと感じてしまった。

 一方で、興味深いストーリーラインもある。黒人でゲイの刑事マイケル・ルドロイト(マッキンリー・ベルチャー三世)の物語だ。マイケルは、『エリック』が持つ社会批評的側面のほとんどを担うキャラクターと言っていい。エドガーの事件を担当するということ以外、ヴィンセントと関わる場面はほとんど見られず、ゆえに全体のプロットから少々浮いているところがある。だが、マイケルの物語自体は多くの切実なメッセージ性を含み、視聴者の心を揺さぶる。なかでも、同性愛者カップルのケア問題を滲ませるシーンの数々は痛切だ。
 正直、マイケルがメインのドラマを別で制作したほうが良かったのでは?と思ってしまった。それほど彼の背景や事件に立ちむかう動機、さらには内面に脈打つ怒りと不安が丁寧に描かれている。

 注目すべきところが多いキャラクターでいえば、ヴィンセントも負けていない。『おはよう お日さま』という子供向け番組の制作者であるヴィンセントは、有害な男性性の典型をなぞっている。家族に関するやりとりのほとんどを妻のキャシー(ギャビー・ホフマン)に任せ、自らは番組の制作に情熱を傾ける。口を開けば婉曲的な嫌みが飛びだし、不機嫌な態度は周りの人たちにストレスフルな配慮を半ば強いている。モラハラ気質がうかがえるその姿は、良く言えば天才肌の芸術家、悪く言えば傲慢なナルシシストだ。こうした性格の影響もあり、キャシーやエドガーとの関係は上手くいっていない。

 しかし、エドガーの失踪をきっかけに、ヴィンセントは自分の愚かさと向きあう。コンプレックスや虚勢といった枷を泥臭く外しながら、失踪したエドガーの足取りを追っていく。
 ヴィンセントが内省する比喩として、エドガーが失踪前に描いたエリックという人形の幻覚を見るようになる展開は秀逸だ。ヴィンセントの心に潜む暴力性を象徴しているエリックは、たびたびヴィンセントに語りかける。その言葉にヴィンセントは戸惑いを隠せないが、最終的には自分の弱さや至らなさを受けいれるなかで、エリックと折りあいをつけていく。
 こうした歩みを経ているからこそ、エリックの着ぐるみを着たヴィンセントがセントラルパークでのデモに乱入し、エドガーに呼びかけるシーンは感動的に映る。エリックという形で現れた自身の暴力性を受けいれ、反省し、贖罪する道を行くと決めたがゆえの行動なのだから。最後の最後でヴィンセントは、有害な男性性を克服する処方箋に辿りつくためのヒントを見つけたのだ。

 先述したように、『エリック』は中途半端な側面が否めない作品だ。さまざまな試みは百発百中とは言えない結果に終わっている。
 だが、百発の中には、生きづらさを抱える者たちの人生を鮮やかにする麗しい花々が込められた弾丸もある。この魅力は決して無視してはいけないと思う。


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