「戦わなくてもいい」なんて言えない


 とても攻撃的で、見ていても怖いから嫌だ。そういう理由で戦いを嫌う人は、筆者の周りでも少なくない。たとえば、社会問題に興味を持つ知り合いの編集者も、その問題を関わる雑誌やWebメディアで取りあげる際はなるべくファイティングポーズを避けてきたという。そうしなければ、戦うこと自体にネガティヴなイメージを持つ多くの読者は引いてしまうのだそうだ。
 こうした考えは珍しくないと思う。何かしらの社会問題を広める目的で、写真の構図やオシャレな服で戦いの匂いを薄めた記事は、至るところで見られる。より多くの人に参加してもらいたいからか、「戦わなくてもいいから…」などと前置きし、関わっている問題の切実さを語る者もいる。

 それはひとつの戦略として理解できるものだ。しかし、筆者はどうもノレない。いま、私たちがあたりまえに享受している権利や恵みのほとんどは、戦いを経て築かれたからだ。庶民を支える社会福祉、職場でのハラスメントに抗議することへの正当性、さらにはこれらを包括する人権という概念。そのすべてが戦いによって作られた。ある者は政治の場で抗い、ある者は音楽や映画といった表現の場で反抗を示した。学者はより良い社会へ歩むための理論を構築し、それを理論的支柱として人々がデモ行進する。戦い方は千差万別だが、それぞれ自分の戦いをおこない、状況をマシにしてきた。

 実を言うと、筆者も昔は戦いに対して冷めた目を向けていた。汗を流して泥臭くやっていたら、ついてくる者もついてこない。もっとスマートにやらなきゃ。そう考えていた。しかし、ライター/編集として仕事をするようになってから、その考えは少しずつ変わっていった。原稿のため、歴史が綴られた本をいくつも読むうちに、膨大な量の汗水がいまの世界の土台になっていると気づかされたからだ。人権、福祉、差別など、あらゆる事柄に戦いの跡がついてまわる。そうした努力と、そこから生まれた価値観をリスペクトしているからこそ、筆者は「戦わなくてもいい」なんて言えない。

サポートよろしくお願いいたします。