政治は“個人的”なこと 〜 音楽と政治 〜



 まず、政治とはなんでしょう? 国会でお偉いさんがやっていること、あるいは活動家や運動家がやっていること...。いろんな見方があると思います。

 筆者にとって政治は、“個人的” なことです。特定の誰かにしかできないものでもないし、小難しい知識を得てからやらないとダメという特別なことでもない。日々の生活を積みかさねる人の営み、そのこと自体が政治だと考えています。

 筆者がこうした考えを持つようになったキッカケは、母からラディカル・フェミニズムについて教えてもらったことです。1970年代にアメリカで起こったこの運動は、「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」というスローガンを掲げていました。
 込められた意味は、個人的な問題とされているもののほとんどが、社会的不公正によって引き起こされるというものです。たとえば、痴漢やレイプといった性暴力は被害者と加害者の当事者間だけの問題ではなく、男女間の不公平な権力関係がもたらすものだというのがラディカル・フェミニズムの考え方です。こうした社会に浸透した “構造的暴力” を変えていくことが、ラディカル・フェミニズムの目的でした。
 その成果のひとつは、キャサリン・マッキノンが概念として確立させた “セクハラ(セクシャルハラスメント)” でしょう。“性的嫌がらせ” を意味するこの言葉は、いまでこそ一般的になりましたが、ほんの40年近く前まではなかった概念なのです。
 ラディカル・フェミニズムの考え方は、法律、政策、教育など、さまざまな方法で人々の生活様式や価値観を規定する力が政治にあるという意味において、いまも妥当性があるように思います。

 少々話が逸れましたが、規定する力を持つのが政治だとすれば、音楽も政治的な営みだと言えます。音楽もまた、聴いた人の気持ちや考えを規定したり、あるいは変化を促すからです。ある音楽のおかげで心に余裕を持てたから人に優しくできたり、これまで見えなかったことが見えてきたり。こういった聴く前と聴いた後の変化というのは、音楽ファンならば1度は体験したことがあるでしょう。これも、政治がもたらす規定や変化の効果と同じなのです。

 また、アヴァランチーズのロビー・チェイターが、最新アルバム『Wildflower』のプレスリリースに寄せたコメントも、筆者の「音楽も政治的な営み」という考えに近いものかもしれません。とても興味深いので、引用させていただきます。

「このアルバムを作っているあいだ、ぼくらを動かしつづけたものは何かと言うと、日常的に生きる力としての...生きるエネルギーとしての音楽を経験することへの信念だった。ある歌を、ある朝聴くことで、その人の1日を変えることができる。つまり、世界の見え方を変える。その日の午後のあいだ、大気を通って屈折してくる光の受けとめ方を変える。まさに、その人の世界の色や感情的な気分を変えるんだ」

 ロビーの言う「生きるエネルギーとしての音楽」は、筆者からすると立派な政治的音楽だと言えます。



 政治的音楽といっても、曲の中であからさまな主張をしたり、政治家や思想家の名前を出さなければいけないということはありません。これらの要素が薄い音楽でも、世界の見え方を変えてくれるものはたくさんあります。

 そのなかでも、イギリスのラッパーであるザ・ストリーツが生みだした『A Grand Don't Come For Free』(2004)は、群を抜く傑作です。このアルバムは、〈今日やること DVDをレンタル屋に返す 銀行で金をおろす 母ちゃんに夕飯を食べに行けよと電話する それから貯めた金を持って 待ち合わせ場所に走るんだ〉(「It Was Supposed To Be So Easy」)など、歌われていることはハードで平凡な日常風景がほとんど。明確なスローガンや主義は登場しません。しかし、『A Grand Don't Come For Free』を聴いた後に、いま世界中で問題になっている経済格差や貧困のニュースを見ると、「ああ、これはあのアルバムで歌われていることじゃないか...」となるはずです。言うなれば、目の前の日常を描くことで、世界にはびこる根源的な病巣を突いたのが、このアルバムの素晴らしいところです。
 ケイト・テンペストの『Everybody Down』(2014)〈※1〉も、似たような構造を持つ作品でしょう。内容は、ヘルス勤めの彼女とディーラーの彼氏、さらにはその友人たちの群像劇です。セックス、ドラック、高騰する都市部の家賃など、さまざまな問題に悩みながらも生きる若者の殺伐とした心情を描いてます。
 ただ、こちらのほうはイギリスの現況とより深くリンクする作品です。先日終わったばかりのキャメロン政権は、公務員や福祉予算の削減、さらに大学授業料の大幅値上げといった、弱者からの収奪と言っていい緊縮財政を敷きました。そうした政策によって排除された者たちの声が、『Everybody Down』の背後にはあると感じます。

 これらの素晴らしい作品が教えてくれるように、政治とは私たちの営みそのものなのです。いわば、私たちの存在自体が “政治的” と言えるでしょう。そう考えると、音楽に政治を持ち込む/持ち込まないという、さも切りわけられるかのように議論すること自体ナンセンスかもしれません。音楽は、私たちの営みから生まれるものだからです。


※1 : ケイト・テンペスト『Everybody Down』については、こちらのレヴュー記事で詳しく語っています。

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