見出し画像

メンテナンス

伸びた眉毛を整えながら、必要なのは「メンテナンスの哲学」なんじゃないかと思う。ただ、それが保守的なものになるのではなくて。メンテナンスを深く考えることが革命的であるような。逆説的にだろうか。そんなこともない。社会がどう変わろうとも生活はある。よりよい生活のために社会を変えるのだから、生活の喜びをおろそかにするような社会批判は本末転倒であるはずだ。

普段から日常のつまらない動作をツイートしていて、生活とは何だろうかという思考がずっと続いている。

僕はよく「儀礼」というキーワードを使うが、それは生活のごく身体的なルーチンを第一にイメージしている。たとえば、同じように朝起きる。左に体をよじって起きる。そのときに、歳のせいもあって腰を「いわせ」ないように気をつける。無理に反動をつけないようにして、ベッドに片手をついてゆっくり体をよじる。カーテンを開けて光を入れる。いつも同じコップにアイスコーヒーを入れ(だからそのコップは「茶ばんで」いる)、換気扇の下でタバコを吸う。こういうルーチン。

マネジメントという言葉には画一的に支配するようなイヤなものを感じるが、メンテナンスというのは僕にとってポジティブな言葉だ。

メンテナンスが重要な部分を占めるホビー。車、バイク、自転車。釣り。ファッション、化粧、筋トレは、身体のメンテナンス自体を趣味にしている。

それが楽しみであるならば、メンテナンスというのはたんなる恒常性の維持ではない。少し工夫する。試行錯誤がある。変化がある。事物に対する即興的なレスポンスの試行錯誤。もうちょっと「こう」するとうまくできる……

そこに「差異と反復」という感じがある。

あるとき、メンテナンスのつもりで大掃除をし始めてしまって、しばらく夢中になっているうちに、別の精神状態になってしまうことがある。それは革命的だ。

メンテナンスのちょっとした試行錯誤のはずが、あるとき「閾」を超える賭けになることがある。僕はそれをメンテナンスの破れとか、脱メンテナンスとは捉えない。メンテナンスとはそもそも微細な賭けの繰り返しなのだと捉える。お化粧する。そのときに道具を持つ手の緊張。そこに革命的なものがある。

風呂に入って出かける準備をする。だが風呂から出たら、行き先は変わっているかもしれない。

ところで僕は「予防」という言葉があまり好きではない。それは未来を基準にして利得を最大化しようとしている感じだからだ。僕がここで考えているメンテナンスはそういうものではない。メンテナンスとは内在的なもので、今後どうなるかわからないとしても、さしあたり存在する主体をなんとか成り立たせることである——その動作がちょっと横滑りすることがあり、それが出来事になる。

これは文章の書き方でもあるなと思う。ただ書く。言いたいことを言おうとするよりもただ書く。予防的に「先に適切な言い方をしておく」よう心がけて書くのではなく——そういう意識は、文が流れる勢いを阻害する。もっとも、うまく書こうとするのは自然なことだ。「最大限に」うまく、というのをやめればいいのだろうか。最大限にではなく、「ただうまく」書こうとするような工夫のあり方。そのつどの。少しずつ筆を進めるその小さな歩みごとの「ただうまく」ということだろうか。眉毛を切りすぎないように切るみたいに。

ここから先は

0字
日々の経験に反応して書く、というのは僕自身のレッスンなのですが、それが読者の方々にとって「何かを書くこと」の後押しになればと願っています。更新は月3回以上を目標にしています。

生活の哲学

¥500 / 月

生活から浮き上がってくる考察、執筆・仕事の方法、読んだもの見たものの批評などを連想的つながりで掲載していきます。Twitterでは十分に書…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?