自己紹介
こんにちは、千葉雅也といいます。
僕は現在、立命館大学の先端総合学術研究科という大学院の教員であり、教育と共に研究・文筆活動をしています。専門は哲学、とくにフランスのいわゆる「現代思想」というもので、ドゥルーズ、フーコー、デリダといった哲学者の読み直しをしながら、僕自身の考察を展開しています。一番の専門はドゥルーズです。
肩書きとしては「哲学者」と呼ばれることが多いのですが、これを気に入らなく思う人もいるかもしれません。日本に哲学者なんかいるものか! という反応も聞いたことがあります。確かに、狭い意味での(というのは「厳密な論理性を大事にする」とかそういう特徴ですが)哲学は古代ギリシア起源で、西洋の伝統芸能みたいなところがありますが、それと近い思考実践は世界のあちこちに見られるのであって、現代日本人が哲学者と呼ばれても不自然ではないというのが僕の立場です。なお、フランスの高校では哲学が必修ですが、それは日本の義務教育で剣道や柔道を教えるのと似ていると思います。
僕が卒論と修士論文で大変お世話になった中島隆博先生は中国哲学の専門家で(とくに古代)、彼もつねに「中国に哲学はあるのか」という疑義と闘っていましたが、そういう先生に教わったこともあって、僕はつねに「哲学とは何か」という問い——「メタ哲学」的な問い——を抱えつつ、自分自身、哲学を試行錯誤しています。正しい哲学/偽の哲学という分割それ自体に学問的興味があります(偽の哲学を見抜いて退ければいい、というので済む話ではないのです)。これは実に伝統的なテーマで、哲学者とソフィストの区別という古代ギリシアの問題に他ならず、それは今日で言えば、学問と自己啓発の境界問題でもあります。
僕は「批評家」と呼ばれることもあります。僕の考えでは、批評というのは、これは良い、あれはダメだとジャッジするというより、ものの構造を分析して、独自の観点で重要なポイントを示すことです。その意味での批評活動を、ジャンルを横断して行ってきました。美術、文学、ファッション、建築、音楽など。
また、2019年から小説も発表しています。最初の中編小説『デッドライン』は野間文芸新人賞を受賞し、芥川賞と三島賞の候補になりました。「作家」活動もしているわけですが、哲学、批評の仕事と合わせ、自分としては「物書き」という言い方がしっくりくると思っています。
詳細な経歴、業績表は以下をご覧ください。
有料のnoteマガジン『生活の哲学』があります。内容紹介は次のページをご覧ください。代表的な記事をリンクしています。
博士論文:動きすぎてはいけない
最初の本『動きすぎてはいけない』は元が博士論文で、ジル・ドゥルーズというフランスの哲学者の研究なので、これを読み通すのはなかなか大変です。物語的に読んでいけなくはないと思いますが、それでも哲学の用語が多いから、まず文庫に収録されている小倉拓也さんの解説を先に読むのお勧めします。
千葉の仕事というと、SNS時代の「接続過剰」に警鐘を鳴らし、あえて「切断」の重要性を言った、というのがよく言われるのですが、それは『動きすぎてはいけない』の「序——切断論」を読むとわかります。そこでは、接続と切断の「程度の問題」が重要だという考え方を論じています。実は、本当に大事なことは、切断よりも「程度の問題」なのです(動き「すぎない not too」わけです)。
勉強の哲学
最初の本としては、ぜひ『勉強の哲学』をお読みください。これは一番広く読んでいただいています。勉強法の本ですが、僕のものの考え方が整理されている本だと言えます。文庫版では最後に芸術論が追加されています。
自己啓発っぽい体裁ではあるけれど(そのシミュレーションです)、現代思想と精神分析の考え方を応用していて、研究の総まとめ的な性格もあります。「アイロニー・ユーモア・享楽」という頂点を持つ三角形が描かれるのですが、それは僕の現代思想論の要約になっています。
アメリカ紀行
それから、ボストンを起点にアメリカ滞在したときの印象を書いた『アメリカ紀行』が読みやすいと思います。これは滞在時のツイートを膨らませる形で書いたもので、一応はエッセイですが、小説の第0.5作とも言えるものです。
ツイッター哲学
僕のツイートの一部は『ツイッター哲学——別のしかたで』という本にまとまっています。元々は2014年に刊行したものですが、2019年までのツイートを追加し、再編集して文庫化されました。ここにある昔のツイートを見てもらうと、僕が最近ツイッターで行っている社会批評の背景がわかると思います。
デッドライン
この小説は、男性同性愛を生きる日常のなかに、哲学的なテーマが自然と存在するという青春小説です。その文体もツイッター的な書き方がベースにあります。ツイッターでの日常生活の描写が、『アメリカ紀行』を経て、ある種の散文になったと言えます。『ツイッター哲学』→『アメリカ紀行』→『デッドライン』と読むと面白いと思います。「書く」ことについての小説でもあります。
この間、文章を実際どう書いてきたかについて、Tak.さんによるインタビュー『書くための名前のない技術 case3』で詳細に語っています。
思弁的実在論と現代について
『動きすぎてはいけない』の後、カンタン・メイヤスーなどのいわゆる「思弁的実在論」の紹介を行ってきましたが、それについては対談集『思弁的実在論と現代について』で経緯を説明しています。この本には文化論的な対談も入っていて、僕のコミュニケーションスタイルが表れている本だと思います。
意味がない無意味
僕自身は、「接続過剰から切断へ」で覚えられるより、それと関連するけどもっと他にテーマがあるんだけどなあ、という思いがあって、多様なジャンルの文章を集めた『意味がない無意味』を主著的に読んでもらいたい気持ちがあります。その序論では、現代思想の歴史をふまえて自分の仕事を整理していて、研究の全体像がわかると思います。その先は色々入っています。美術論、ファッション論、文学論、ラーメンの話などなど。この時期の文章はかなり凝った書き方で、「書く」ことをめぐる神経質さがよく表れています。最近ではざっくばらんな書き方に向かっていますが、背景にはこういう性格があるんだと知ってもらえると、ちょっと嬉しい。
世界哲学史8
現代思想の紹介者としては、「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」という文章があります。ちくま新書の『世界哲学史 8』に収録されています。フランス現代思想の全体像を僕なりに描いています。また、ときどきネットで目にする「ポストモダン批判」に対する批判を行っています。
最近の考察
で、最近は、脳科学や自閉症スペクトラムの研究も参照して、思考と身体がどう関係するかというのを考えていて、『勉強の哲学』の構図をアップデートするような仕事をしています。そのベースは、「人間は(他の動物とは違って)認知能力を余らせていて、一対一対応的な認知より先に一対多の流動的な認知ができてしまうので、それを制約=有限化しなければならない。人間の社会制度や文化は認知の過剰とその有限化の振幅の間で構成されている」といった考えです。最近の時事的なツイートもここから派生しているものが多いと思います。これについてはいずれ本を書くことになるでしょう。ときどき「制作の哲学」というプロジェクトネームで本を準備していると言っていますが、それです。
「接続過剰から切断へ」が、「人間は認知能力を余らせている、だから有限化が必要である」という命題へと展開しているわけです。
最近のこのような考察としては、次の記事をぜひお読みください。
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