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張本勲さん~ハングリー精神の塊~

張本勲。

野球に詳しくない方でも一度は耳にしたことがあると思う。
昭和中期から後期にかけて活躍したプロ野球選手である。
現役生活23年間に渡り、多くのプロ野球記録を残したレジェンド選手である。
尚、主な通算成績は下記に記載する。

【主な通算成績一覧】
・3,085安打(歴代最多)
・年間打率3割16回(〃)
・猛打賞251回(〃)
・首位打者7回(歴代最多タイ)
・9年連続打率3割(史上最長)
・最高出塁数9回(現在の最高出塁率。パリーグ最多)
・500本塁打300盗塁(NPB唯一)

歴代最多や最長記録を数多く獲得していることが一目で理解頂けるかと思う。
数年前まで出演していた某番組での発言が度々炎上し、アンチ張本の方が多いとは思う。
ただ、好き嫌いは別にして、張本さんが残した実績や野球への取り組み方、生き様は素直に称賛すべきではないだろうか?
個人的な意見だが、生い立ちを知れば張本さんを嫌いにはなれない(だからといって3年前の女性蔑視発言を擁護するつもりはないが)。それはこの後紹介する経歴が大きく関係しているので読んでみて欲しい。

①生い立ち

1940年に広島市で生まれた張本さんは4歳の時に右手に大火傷を負い、薬指と小指の自由を失ってしまう。
そして、もうお気づきかもしれないが、1945年、5歳の時に被爆した。本人によると、避難場所で経験した人肉の焼ける強烈な臭い、叫び声を上げながら川に飛び込んで亡くなっていく人々、夜通し続く呻き声を今でも忘れられないとのこと。尚、長姉は大火傷を負い、数日後に亡くなってしまった。
又、終戦後には父親が急死してしまった関係で、母親は広島駅前の闇市で肉を仕入れて自宅でホルモン焼き店を始め、生計を立てた。

②中学~高校時代

水泳が得意だったが、進学した中学校には水泳部がなかったため、止むなく野球部に入部。ただ、張本さんは韓国人だったため、人種差別を受けた。それ故いじめられた恨みを喧嘩で晴らしているうちに高校生はおろか、ヤクザを半殺しにしたこともあったそう。
これほどまでに荒れていたため、高校進学は困難を極めた。地元の広島商業or広陵への進学を希望していたが、素行不良により両校とも不合格となってしまい、野球では無名だった松本商業(現瀬戸内高校。オリックスの山岡は本校のOB)の定時制に進学した。
昼間は働き、夜は学業という生活で野球の練習ができず、見かねた高校の監督は県外への転校を勧めた。大阪の浪商に転校後の3年夏に念願の甲子園出場を果たしたが、暴力事件に張本さんが関わったとし休部処分を受けてしまった。ただ、張本さんはこの事件に関与しておらず、当時の野球部部長がアンチ韓国人だったため、張本さんを陥れたとのことだった。
ここまで長々と書いたが、張本さんの人生がいかにハードモードだったかがお分かり頂けたかと思う。「右手の不自由」「被爆」「極貧生活」「人種差別」。これほどまでに壮絶な経験をした野球選手は恐らくいないだろう。

③プロ野球選手時代(東映・日拓・日本ハム)

1959年、東映フライヤーズに入団。尚、この時もらった契約金200万円は母親のために広島に一軒家を建てるのに使った。
張本さんは長距離バッターを目指していたが、先述の通り右手が不自由だったため、当時コーチだった松木謙治郎さんに中距離バッターを目指すよう進言される。
すると1年目から新人王を獲得したのを皮切りに、2年目に1回目の打率3割を記録、3年目に首位打者、そして4年目は広島でのオールスターゲームで親族一同を招待し、MVPを取る活躍を見せ、故郷に錦を飾った。尚、張本さんはこの試合は今でも思い出に残っているとのこと。
その後も安定した成績を残し、1972年には2000本安打を達成。同年に記録した猛打賞22回は、1996年にイチローさんが更新するまで日本記録だった。
東映時代の張本さんについてパリーグの他球団選手は下記のように語っている(ソース:NHK BS『レジェンドの目撃者』)。

山田久志さん(元阪急)
「対戦したバッターの中で弱点が一番少なかったのが張本さん」
「どんなボールにも打ち返せる技術があった」
「イチロー選手や篠塚選手のように当てるのではなく常に振り切ってくる」
「ボール球には手を出してくれなかった」
「私はほとんど打たれっぱなし」
「あっぱれとしか言い様がない」
長池徳士さん(〃)
「崩れた打ち方をしない」
「身体の動きがシンプルで、バットが出てくるのが遅い。つまりボールを長く見れるため、ストライクとボールの判断が正確にできるということ」
鈴木啓示さん(元近鉄)
「良いピッチャーはボール球を振らせるものだが、張本さんからそのようにして三振に打ち取った覚えはあまりない」

このように、張本さんをたたえる声が多い。張本さんは同番組の中で「ここまでの成績を残せたのはハングリー精神があったから。子供の頃は貧しかったから腹一杯おいしい物を食べたいと思っていたのと、苦労を掛けた母親に楽をさせたい。その一心だった」「"今日は4安打打ったけどこれは偶然だ。明日はノーヒットに終わるかもしれない"と言い聞かせてきた」「練習をやらないと眠れない状態にした」「もう二度と野球選手にはなりたくない。23年間の中で楽しく野球をやったことは1回もない」と語っている。
人並み外れたハングリー精神と反骨心があったからこそ、あれだけの成績が残せたと思うし、上記のようなことをはっきりと言えるのだと思う。特に「楽しく野球をやったことは1回もない」と言う言葉は私に深く突き刺さった。それだけ死に物狂いで野球に向き合ってきたのかと感じたからである。

④プロ野球選手時代(巨人)

1975年オフ、トレードで巨人に移籍。同年の巨人は球団史上唯一の最下位に終わっており、張本さんを獲得したのは4番だった王貞治さんへのマークを分散させるためだったとのこと。
迎えた1976年は自己最高となる182安打を放ち、最下位からのリーグ優勝に貢献。当時チームメイトだった高田繁さんと吉田孝司さんは「張本さんのおかげで優勝できた」と証言している。
尚、1977年9月3日のヤクルト戦で王さんが世界記録となる通算756号ホームランを放ったが、次打者の張本さんが後ろで大きく跳んで喜んだ。王さんとは同学年であり、両リーグで切磋琢磨してきたからこそ、喜びも大きかったのだろう。張本さんは後に「巨人時代は花道だった。プロ野球選手としての本来の姿を学べた。感謝している。」と語っている。

⑤プロ野球選手時代(ロッテ)

1980年、前年に巨人を構想外となった張本さんはロッテのオーナーだった重光武雄さんの誘いもあり、入団を決意する。
同年5月28日の阪急戦でNPB初となる通算3000本安打をホームランで達成。1塁ベースを回る際、豪快にヘルメットを脱ぎ捨てたシーンを覚えている方も多いのではないか。又、9月28日にはダブルヘッダー1試合目の近鉄戦で史上3人目となる通算500号ホームランも達成した。
翌1981年に引退。通算の打撃部門の全ての上位に名を連ねているため、史上屈指の強打者と呼ばれている。

・終わりに・

打撃では名を残す活躍を見せたが、守備はというと、幼少期の火傷と高校時代の肩故障の影響により、思うようなプレーはできなかった。尚、右手については引退後の座談会で川上哲治さんに見せた。川上さんは「よくもそんな手で・・・」と涙を流しながら絶句していたとのこと。
野球選手にとって致命的なハンデを背負いながらもそれを補って余りある活躍ができたのは先述の通り、人並み外れたハングリー精神と反骨心があったからではないだろうか。
戦争を知らない私にとって、張本さんは尊敬する1人である。今回張本さんの経歴を振り返ってみて、自分にはハングリー精神が大きく欠けていると痛感した。ハングリー精神を忘れることなく、明日からの仕事も取り組んでいきたい、そう決心した1日だった。


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