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パブリックの研究:河原乞食が豪邸を建て国会議員になる時代

河原乞食とは小沢昭一さんが自分達芸人を指していっていた言葉だ。決してを差別の言葉ではない。『本当に素晴らしいのは毎日働く人なのだ』と庶民を力づけていたのだ。毎日汗水流して働いている人に喜んでもらって、木戸銭いただくことが自分たち(芸人)なのだと知っていたのだ。永六輔さんや小沢誠一さんお話を、小さい頃(20歳くらいまで)床屋さんや夕方のラジオ番組で時折聞いていたものだ。まだ、演芸場や寄席、興行を通じて観客が木戸銭を払っていた時代である。

しかし、1980年代から、大きく様変わりをする。大橋巨泉の時代が始まり、愛川欽也へと移り、ビートたけし・タモリ、そして松本人志、テレビで「企業の宣伝する」ことで金を得るようになるのだ。芸を見せるのではなくオチャラケて商品が売れることでその売上の一分を得るようになる。

巨額のあぶく銭が入り「不動産投資」をすることで一気にセレブになった汗水流さない方々が生まれるのだ。島田紳助や樹木希林などは代表格だ。再投資することでまた金が生まれる。しかし、そのカネの出所は僕らが商品を買った代金の一部である。本来ならば、労働者の時給にあてられるべきものである。

汗水たらす労働者が自分が馬鹿に見えるようになったのだ。すっかり河原乞食の姿は残っていない。企業や政党の側に立っている。

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パブリックとはなにか

かつては、社会が小さく閉じられていた。

そして、地域では「祭り」で歌い、踊り、運動、会文化祭があった。

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地域の企業はスポーツ好きがチームを作っていた。そう、私達は毎日の生活の中に、音楽やスポーツを共に楽しんでいたのだ。なにせどれも一人ではできない(笑)。

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僕はこれを「パブリック=一人では出来ない喜び=共通の財産」と考えている。毎日汗水を流して働きながら、そんな喜びの時を楽しみにしていたのである。

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手前左が父、うちには立派な碁盤が2つあった。将棋も大好きだったし、母は百人一首のチャンピオンだった。

それは遠い昔に始まったお話である。旅芸人・口承文学(瞽女の弾き語り)が生まれ、私達は共通の価値を育んできたのだ。社会のうちに入れない者たちが、離れザルとなってコミュニティの言葉を伝え歩いていたのだ。私達は、彼らの自由を愛す。彼らは私たちの安定を少しだけ羨むのであった。

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都市の発達とともに、人が集まることが出来るようになり、劇場や音楽ホールのような「小屋」が立ち、演芸を専門で売るビジネスが生まれる

やがて、レコードのような音楽再生技術、映画が生まれたが、まだ映画は「フィルム」のレンタルと売買の時代であった。やがて、ビデオ、DVDの時代が到来する。この時代背景の中で「特許・著作権」はクリエイティブを保護して育成するためのものであった。

地域のスポーツとプロスポーツ

地域で企業が自分の会社の社員としてスポーツ選手を雇う形で日本では発達した。

プロスポーツはなかったと思われがちであるが、「相撲」があった。僕の地元には、露天の土俵があった。士農工商の「農」のスポーツであった。もう一つ、剣道場もあったことも思い出す。

高校では柔道と剣道が選択されたなあ。どなたかこのあたりのことは研究しているのだろうが、あまり読んだことがない。

玉木正之サンの本はかなり持っている。「スポーツ大辞典」だったろうかかなり面白いなあと思い、読んだ。息子がラグビーをはじめて、色々と疑問に思うこともあって、社会におけるスポーツのあり方を考える切っ掛けになった。サッカーのプロリーグ化やバスケットボール、ラグビーといったスポーツのプロ化の試みを見ながら、これらの問題を同じ観点から論じることは出来ないかと考えていた。

アマチュア、プロ、実業団といった形態の違いこそあれ、「パブリック(共通の喜び)」をどの様に維持するのかというのは興味深い問題である。

相撲取りの人たちは、引退すると、「プロ組織」の維持育成に携わり金を受け取る。コーチになったりーオーナーになったり、監督になったりする。

もちろん周辺事業(ちゃんこ屋さん)で食っていく人もいた。

プロ野球で言えば、『読売+巨人+巨人の星+リポビタンD』のメディアにックス路線のあたりから大いに様変わりする。

「若乃花・貴乃花」と言うブランドもすごかったなあ。

アマチュアスポーツも、その構造自体が一つの大きなプロリーグと考えられそうである。オリンピックを一部リーグとすると国体は2部リーグというところであろうか。

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社会の変化で「特許・著作権」の姿が一変する

自分たちが楽しむものという観点から、演芸・スポーツを捉えていたものが、「見ること・権威づけること」へと変化するのである。

小ロッセアムで剣闘士が殺し合い、それをローマ市民は熱狂した。スペインでは闘牛、ボクシングやプロレスとも通じる楽しみである。
見方を変えればAVなどもプロのセックス師(売春は世界で一番古い商売と言われるが、もう一捻りしたい)の技をみて楽しむものである。もちろん自分おやりたいが、そんなに上手でも身体的な優位性もない(笑)。

コンテンツとしてただ見るだけでなく、「解説」を求めるのである。権威が認定する形である。「お笑い番組」の審査員とか解説者の存在を考えると面白い。彼らが「OK」を出した人間にだけ報酬は払われるのである。

つまり、権威とは「コミュニティの共通の価値」を認定するのだ。

家庭での「テレビのチャンネル(?)争い」も家庭というコミュニティでの価値の認定だと考えると納得がいく。父母と一緒に見ている番組でベッドシーンはなかなか一緒には観覧できないものだった。今は子供は自分で勝手にスマホで見ておる。共通の価値というのが空間的な縛りを抜けて、ネット上で架空のコミュニティを作っている。そしてそれはプライベート化(匿名化)している

この映画は大好き、とにかくラストが素晴らしい。自分たちの人生は自分たちのものだと語りかけているのだ。映画になったりTV番組に取り上げられたりすることが素晴らしさの認定ではないのだ。そして、「著作権」と言う集金システムが、僕らの人生の喜びから金を集めているのだ。
シガニーウイーバーの著作権協会のおばちゃんが凄い。彼女絶対楽しんでいるようね。市の役人の人も上手。そこに生きる人が大事なのだと訴えている。自分が生きるのは自分のためなのだ。

カセットテープやレコードまでの時代だった。ステージも小さく大した売上もなかったであろう。観客も貧しく、そんな中で一時の笑いを貰っていたのだ。実にシンプルな形態である。

この映画は、パブリックという観点から見ると大変面白い。「広場」が地域の住民の共通の場所から単なる駐車場へと変貌している姿。映画館で金持ちも貧乏人も一緒に笑っている姿。暗がりでセックスする姿。権威(聖職者)の検閲、そして終戦と自由、ソビエトに移住する住人。資本家がパラダイス座を買取り、都会に行ったトト、規制して部屋がそのままなときに感じた母の愛。アルフレードの渡してくれたプレゼントはいいねえ。僕はトトと年代が随分近い(もちろん彼のほうが上)。そして、僕の生まれた町には、3つ映画館があった。この映画、僕は大好き。

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スポーツ選手・芸人が悪いわけではない

この変化はほんの僅かな期間に起こった。

彼らは、自分を高く売れる様に売っているだけである。僕だって、そうする。ネットでもスティマやyoutuberは金を稼ぐ。問題は、彼らを使って利益を上げている企業がコミュニティにその利益を還元していないことだ。

芸人やスポーツ選手に広告宣伝費を払うということは、それ以上の収益があるのだ。

本来、その商品を買っている人に集まった富は還元されなかったら誰もそのコミュニティに参加することはなくなる。ある意味の自由市場が上手く機能していたのだ。

しかし、今私達が組み込まれている「パブリック」のシステムは、抜けることが出来ないのだ。

福祉というのは、そのコミュニティ(この場合は「国」)に属する人々を見捨てないと言う決意なのだ。

かつて、経済が狭く閉じていた時代は、自分の商品を買ってくれるヒトは、売ってくれる人であり、共に生きていたのだ。皆顔を知っていて、互いに助け合うコミュニティであった。

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国家は企業に買い取られ、貧窮する人たちを見捨てているのだ。

今や、芸能人やスポーツ選手達は豪邸を建てて国会議員になって税金を喰らい、アスリートの残骸となっても地位を離れない。芸能人もそう、かつては世の矛盾に悩み、権力者の奢りを笑いとともにあぶり出した姿はない。

テレビでは彼らの豪邸を映して勝ち組と称賛するが、その金は企業の宣伝費でしかない。労働者の時給を削り、精神内科に通いながらローンを組んで、食事や商品を買って生きている人達から搾り取ったものだ。

それが悪いということではない。

僕らは喜びを彼らに与えてもらっている。ではどこに落としどころはあるのだろうか?

考えてみるとこの問題は、「老人問題」なのだ。もう何もできなくなった人たちを見捨てないことの意味を問われているのだ。皆年取って何もできなくなることが怖い。今の生活が維持できなくなることが怖い。

かつては「家庭」という「企業・商店・農家」が生活の核であり、「医療・教育・介護・政治」の単位であった。1980年代を分水嶺に見事に破壊されたのだ。そして行政が委託されたのだが、そこから利益を上げる連中が生まれた。

そして「権威」が「パブリック」を定義して金を使う。企業が自社をパブリックとして扱うことで営業のいらない売上を手に入れるようになる。

コロナ(健康というパブリック)もオリンピック(運動というパブリック)も権威が金を配分する。社会の中で貧困にあえぐ人を切り捨てているのがよく分かる。

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パブリックは喜びの生まれるところ

私達は、スポーツが好きだ、歌も聞きたい、踊りもみたい。その芸に秀でた人を支えたいと思うことは何も問題ではない。

問題は、その心を利用して「商品を売」る企業は労働者の時給を削り、利益を溜め込んで戻さない。「著作権管理」の名のもとに広範囲の集金システムを利用して金を集める「役人=パブリックの委託先」がカラオケの一曲からも、幼稚園の音楽発表会の演奏からもカネを集めるのだ。そして、天下った役人は委託料で、権利者から買い上げた著作権という債権、豪邸を建てるのだ。

これは恋愛やセックス、家族、旅、グルメも同じ。自分で体験するのが一番気持ちいのに、人のするところ見て大喜びだ。

去年、オリンピックバンザイだった頃、中止になればいいと思っていた。願えば叶うものだ。しかし、今はやったほうが良いと思う。この祭りが、いかに私達が愚かであるのかと言うこと証拠となる。

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父に教えられたスポーツ

小さい頃、地域の卓球大会に父に連れられていったことを覚えている。家にはまだその頃のトロフィーがある。小さくみすぼらしいが、父はこれが一番価値があると言っていた。


野球も、大流行であった。近くには広場があり、学校から帰った子どもたちが楽しんでいたものである。

スポーツも、音楽も喜びであり、すねての価値の根源である。そして上手な先生に習えたことは僕にとっての人生を豊かにしてくれた。

しかし、それも生活があってその上でのことである。

バイオリン引いておる。

泳いでおる。僕は水泳が大好き。もうしばらく泳いでいない。

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インターネットユーザー会のこと

設立当時大変面白かった。最初の一年くらい会員だったような気がする。とてもいい議論があって、面白かったのだが「格差」の問題は全く表にはでなかった。

クリエータをどうサポートするかという議論は面白かった。しかし、大学教授も同じ目線で考えねばならないのだ。今や国家の飼い犬と言っていい状態である。だから、「表現の不自由展」のような問題が起こる。そもそも、企業の社長は右翼系の方が多い。中国はビジネスの敵であるから右翼であることには経済的な意味があるのだ。その観点から考えなければ正しい姿は見えない。ネット右翼というのもリアル右翼というのも、ビジネス上の利権が絡んでくる。

社会自身を自分の理想に近づけようとすれば、企業が強欲であるという問題を避けては通れない。そんな事を言ったら、学会から締め出される(笑)。学術会議の予算で外国の学会に行って美味いもの食えなくなる。

白田秀明さんって、MIAU抜けたんじゃなかったかしら。

著作権の事をはっきりと「人格権」ではなく「特定産業を育成するためのものだ」お書きになっていたような気がする。

直接には関係がないが、「パブリック」の「管理者がどうしてこんなに給料が高い問題」は深刻である。ここにも格差の問題は有る。優秀だから給料はいくら高くともいいのだでは済まないのだ。

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そもそもこの記事を見てあまりのおめでたさに呆れ返ってしまったのである。

「アスリートと一般市民の利害は今や根本的に対立している。」というが、なんか勘違いしている。アスリートは一般市民の買っている商品の宣伝しているのだ。確かに地域のスポーツに関わる人も多いが、今の問題は企業の手先になっているということである。今回の五輪の問題だって、企業の広告宣伝の場であることを除けば誰も望んでいまい。逆にコイツラ気持ちが悪い連中だと思う。

しかし、広告宣伝費(アメリカからの放送権料)を多くの企業が分配するそしてその一部がアマチュアスポーツ組織に流れるのだ。それがなければ、給料が無くなるのだ。必死である。

もう一つはスポーツ復興予算という「税金」を使っている。企業が税金という形で拠出した「富の分配」の取り合いなのだ。こういう連中が議員になってまともに政策議論ができると思うほうがおかしい。官僚の言いなりの答弁やプランを示して報酬をもらう。そして大学や各種団体は官僚の天下り先なのである。

そのプロセスがあまりに不明確で複雑である。

聖火リレーを見ればいい、行政の一部に企業のパレードが組み込まれ、広告宣伝として行政が使われ律ことが問題なのだ。

民主主義は買い取られたのである。

こういう社会はテロで滅びるほかない。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。