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餡掛けパンチェッタ焼きそば、テイクアウトの無念、月桂樹の剪定

朝はリンゴ、昼に買い物から帰ってきた妻がお腹すいたというので餡掛け焼きそばを作ることにした。野菜たっぷりの中華の炒めを先日の焼きそばの残り(一玉)にかけるのだ。

イタリアンぽいぽいである。日本料理とイタリア料理は素材を大事にするという点でよく似ていると昔なにかの本で読んだ。けどね、手作りの料理は皆素材を大事にする。

王様・殿様に献上する料理は、高級食材と複雑な手間で素材を殺して金を稼ぐ。遠い土地の珍味に講釈を付けて高く売る。
庶民の食べ物と同じものはアイツラは好まないのだ。

残念ながら今のチープな食事も「素菜を殺して賞味期限を長くする」という点では「同じ」である。
昔は贅沢病と言われた「糖尿病」が今や国民病である。

白菜にタマネギ、モヤシにピーマン、少し残っているハム。
パンチェッタをジックリと熱して油を出す。パスタも美味いが中華麺でもグーである。
麺を固めに茹でて、パンチェッタの脂で炒め始める。ジックリと軽く焦げるところまで炒めると餡掛けにした時に味を吸う。

モヤシが悪くなりかけなので使わねばならない。モヤシには栄養がないとお偉い学者先生は言う。あの連中は食材から水分を飛ばして残ったカスを分析する。そこに入っている生命の残滓を「栄養素」と言う分類で値段をつける。

可愛そうだが、もやし炒めの美味しさを知らないのだろう。

モヤシとタマネギを最初に放り込んでガツンと行く。ここが肝心。最初から煮ると美味しくない。強い熱でソテー(素揚げ)にするくらいの勢いて炒める。

いちばん大事なことは『なぜ美味しいのか』と言う疑問である。

栄養素がなにもないという「モヤシ」がこんなに美味しいのは、「食事=栄養素を食べる」と言う考え方が間違えているからである。

人の身体から水を抜いて「栄養素」に分解したところで「喜びや悲しみ、苦しみや希望、愛や憎しみ」どれも説明など出来ない。

食事=厨房仕事は「自分自身=生命」を見つめることなのだ。
厨房仕事は生涯をかけても恥ずかしくはない。

大袈裟なもやし炒めである。
美味しいわけだ。

モヤシ臭さがなくなってきたら、白菜の茎の部分を入れる。モヤシとタマネギがカラカラになりそうなところに助けに行く。鍋の援軍である。
白菜の茎は構造がしっかりしていて、味を吸うのでタマネギとモヤシの「生命=立体構造を維持したタンパク・脂質」を受け止めるのだ。
葉物は熱に弱いので最後に入れてスープを加える。市販のスープ使う。市販おスープを蛇蝎のように嫌う方々も多いが、素材の力の方を僕は信じている。
カラカラになった麺に絡めてあげる。麺自身が美味しさを受け止めてくれる。
そこそこに荒れる。
ごちそうさまでした。

庭の月桂樹が大きくなりすぎているので剪定することにした。

大きくなりすぎると周りの木が萎縮する。榊が根本で大きくなれないので切ることにした。
バッサリ行った。
結構な枝の量である。
来年は、足元の榊が大きくなるであろうや。
隣の梅の木にも大きくなってもらいたいのだ。

庭仕事は面白い。
それぞれの木々が自分を広げようとする。
雪に折れることもあり、僕に切られることもある。
僕も庭の一部なのだ。
贅沢な趣味である。


買い物に出たら、腹が減って夜はハンバーグのテイクアウトを食べてみることにした。アトカタはカンタンであったが、無念な夕食であった。

人様の作ったものに文句を言うのは好まないが、一口で十分であった。
老い先短い妻と、一日働いて帰ってきた娘に申し訳ない。
見てくれはいいのだが、野菜が決定的にまずい。センターキッチンで作ってお店で温めた味がする。とは言っても、それを選んだ僕が悪い。
大盛り無料のご飯は明日ガーリックライスにしよう。ワイン飲んで寝てしまった。
豆腐の味噌汁は美味しい。地元の美味しいお店のものである

アトカタもゴミにしてポイで終わる。

このゴミは社会の中でコストとなって、同時に医療キャピタリストの富につながるのだ。世の中は複雑である。

いつもより早く終る。コーヒーを入れて少し休んで風呂に入って一仕事である。





厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。