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アーリオオーリエ_ジェノベーゼ_カルボナーラ、すき焼き

今朝から買い物に出たが混んでいたのでそのまま帰ってきた。朝は昨日のうどんの残りを食べて3時位にパスタを作った。パンチェッタの出番である。ジェノベーゼオイルとチーズがあったので豪華な一品ができた。

お節に飽きたのでパスタである。ジェノベーゼオイルがあったので使うことにした。
厚めにペンチェッタ(バラ肉)をきる。10日くらい外気で成熟させたバラ肉である。
ジックリと脂を出しながらニンニクと唐辛子をクツらせる。

カプサイシンが唐辛子には入っているから食べるといいとそこら中に書かれているが、「還元主義が生命を解明すると思いこんでいるというバカな言説である」である。還元主義とは、科学的な分析によって「災厄」の原因が見つかると思いこんでいる私達の弱さである。
商売人医療キャピタリストの言うことを信じてはいけない。高度医療という拷問的な侵襲と薬漬けの人生の終わりが待っている。
『年老いていくこと、様々な臓器の不全、ガン、生活習慣病と呼ばれる検査値の逸脱』これはアタワリである。毎日の生活が現れた当たり前の姿なのだ。そして、世界には金で買えないものもあるのだ。

僕は食事を作るプロセスに問題があると思っている。この50年での食事に対しての変化は外見からはわからない。しかし、多くの食事に起因する災厄が世界に蔓延していることを考えれば筋が通っている。

粉チーズを挽いて卵を入れる。カルボナーラにすることにした。
面倒なことは考えない。ご飯に卵をかけて食べるように麺に卵かけるだけである。よくあえてから盛り付けるのだ。
妻と娘と3人で食べた。

夜はすき焼きにすることにした。もちろん豚肉である。

すき焼きと言うけど、実際には鍋である。

鍋というのは「血」なのである。体の外で食材の生命の海を作り食べるのだ。大事なのは作られるプロセシなのである。「濃縮抽出乾燥」工程を通らないことこそが重要だ。
それは、家族というシェルターが守り続けてきた「伝統的な調理技術」の中に生きている。

今日は根菜が多い。旬のものを集めて一鍋にする。All for one One for allである。
肉を炙り、脂と肉汁が出たところでたっぷりの砂糖を醤油で焦がして味を作る。
根菜系を入れて味をまとめていく。

食事を作るプロセス(素材から皿までの距離と時間)こそが重要っである素材の内にある「生命=立体構造を持ちその内側にミネラルを維持しているタンパク・脂質+生命の共通の通貨であるブドウ糖」をいかに「生命の海」から海へと導くかが伝統的な厨房のロセスなのだ。
それは非効率的で、時間がかかり、愚かに見える。

ネギと白菜の茎部分などが入る。
火が通り始めると隙間があくので残りの野菜を入れる。肉を足してクツクツとやる。
出来上がったら自分お好きな具をよそおう。
年末に開けた酒を飲み終わった。2回お代りをした。
余っていたお餅をフライパンでバターで焼いて食べた。正月も終わりである。

スーパーやコンビニで弁当やお惣菜を買って食っている元気な年寄はいない。商品化された食事、検査値によく効く薬、何度も繰り返される同じような災厄、「経管栄養・輸液・胃ろう」で管だらけのクリスマスツリーのようにされてICUで臓器移植を待つ人生の終わり。
そんな道を通りたくはない。

夜中にマユのご飯を作った。

明日の夜まで食べるのである。汁が大事なのだ。鍋物はスーパーでは売っていない。レトルトのだしの素はあるが、大事なのはいかに野菜を沢山食べるかである。
商品化されただしの素を僕はさほど嫌わない。大事なことは素材から適切なプロセスで作られた食事をいかにたくさん食べるかである。
アトカタである。
マユのご飯を作りながら、片付ける。正月も終わりである。
明朝は今年最初のゴミ出しである。
この静寂が好きだ。人生の終わりも、こうでありたい。





僕には、健康診断を繰り返して高度医療にすがりつく姿こそ愚かに見える。

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。