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「ぬいぐるみ」を捨てられない病

断捨離はシンプルな生き方で素晴らしいという輩がいるが、本気なのだろうか?格差の中で「貧困で物も持っていれない生活」をこの言葉は指すのだ。

昔、マイレージ・マイライフと言う映画の中で、首切り代行の男が自分の人生を何も持っていなかたことに気がつくのだった。
講演会の中で人生はトランク一つ分の物さえあれば良いという。シンプルで素晴らしいものだという。

ペコちゃんポコちゃんの人形である。欲しくて子どもたちにいくつもお菓子を買った。高く付いたものである。貯金箱もあったと思うが、どこにあるだろうか。

豪邸に金銀財宝を持って美味しいものや贅沢をしたいというのではない。
せめて、生きてきた思い出は、捨てないで終の棲家でピンコロに死にたいというだけなのだ。
今の社会は、時給も削られて、キャピタリストのためにリストラされて、そのたびに人生をリセットである。

こどもの日に、「鯉のぼり」を買ったのだった。またがってお馬の稽古をしたものである。


金持ちは、いくつも家を持ち、高級車をガレージに隠し、海外旅行にレストランと忙しい。そして、成績が悪かったからアンタはそういう目に合うのだと納得させられる。格差は自己責任であるということになる。

こんな格差は正常な社会ではない。
かつて私達はみな貧しく、ともに助け合いながら生きていたのだ。まだ金では買えないものがあった時代である。

ナーフで打ち合いしたものである。マユが弾を食べるので実家においてある。
エアガンは20代の頃会社で打ち合いした。壁が凹んでポスターで隠した。もう弾は出ない。両足の親指の間の銃と同じである。油差して修理できれば良いのだが。


母の兄は、奥さんに先立たれ、認知症と診断されて、グループホームに入った。ガランとした小さな部屋には何も置かれていなかった。家に帰りたいとよる外に出て、転倒してから薬をもられるようになり、一日中座って口をパクパクさせているようになった。
父の兄は、地元の介護施設に入った。清潔な部屋とエレベータ、いつも綺麗にベットメーキングされていた。いつも食べ物に文句を言っていた。100歳を超えて、幾度か転倒して、大人数の部屋に移って、お見舞いに行っても何も話すこともなくなり(夕食に何を食べたかも言わなくなり)、父が先に亡くなり、お見舞いに行かなくなった。

一番下の段は仕事道具。まだ電源をいれれば動くだろうなあ。SE30は最初に独立した時に買った。100万近くしたと思う。カラーモニターがつくように拡張してあった。でかいブラウン管のモニターであった。

私達は、モノで記憶する。
というよりも、物自身が記憶なのだ。
身体という物の変化が人生の記憶であるのと同じ。僕の右手首は痛むがこれは小さい頃塾をサボってくじいたため。左手の人差し指がしびれるが、酔っ払って包丁で切断寸前まで切った記憶。糖尿病なのだが、30歳の頃300時間を超える残業でソフトの勉強をした記憶。

オライリーマニアでもある。結構シャツとか便箋とかトートバッグとかもらった。
この倍ぐらい家の地下室(高断熱の家で、床下がプールのように閉じてある。)にはある。実家には気に入った本が置かれている。時折こもって読んでおる。

妻が突然、地下から子供のぬいぐるみを出してきて捨てるという。多分、テレビの「断捨離特集」を見たのだろうか。
どうせ年金は足りないから、働けなくなったら家を売るほかない。生活保護者用の介護施設で死ぬ人生が待っている。

でかい家で暮らす連中はのうのうとして居る。テロが止まないわけである。

今の社会、子供とともに生きることは出来ない。安い時給で働かせられるということは、介護や教育を金で買わなければならないのだ。
共に生きる家族などいないから、施設で健康診断を繰り返して、管だらけにされて生きる他ないのだ。まっぴらである。

死ぬ瞬間まで仕事してピンコロと死ぬ。毎日素材から食事を作り、新しい技術を学び、プログラム組んで生きていきたい。この家で弁当作って地域の人と共に生きていきたい。

食事作りには、生きてきた道筋が現れる。
売られている食事は、遠くに住むフードキャピタリストに富を与え、私達から自分らしい生き方を奪う。

この映画の紹介などをみると人を使い捨てる企業のあり方を賛美しているのだが分かっているのだろうか?
人を使い捨てて行く社会のあり方はおかしいのだ。

#断捨離
#ヌイグルミを捨てられない病
#マイレージ・マイライフ



厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。