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「俺様俳優ウイル・スミス」の平手打ちから見えるもの:レニー・ブルース大好き

イジメやパワハラに直面している人から見たら、快哉的行為なのだろう。
しかし、僕には傲慢な男の姿が見える。

平手打ちなどしないで、自分が壇上に呼ばれた時に「ひと目を気にしないでありのままの自分を表現している妻の勇気」を称賛するべきであったのだ。
この男の平手打ちは、奥さんやつらい思いをしている人の勇気をも踏みにじるものである。

僕はこの男大嫌い。

色々と反響を見てみると、『そんなジョーク言ったほうが悪い、殴られても自業自得、良くひっぱたいた』という意見が多い。
会社でも、学校でも他人と違うことでイジられ、つらい思いをしている人が多い社会の反映であろう。そういうことを書く人の体験を読んだりすると、それはそれで痛い。

自分が上の人間にいじられ、馬鹿にされている時に何も言えないのは辛い。
体重が100kgにならんとしていた20代の半ばの頃、会社の先輩がいつも「お前の尻はデカイな」と言ってはノロマな僕をイジっていた。今でもその男が憎くてたまらない。しかし、彼はサービス残業を強要する会社に楯突いて、黙ってサービスしている僕らを罵倒していた。上と大喧嘩になって彼は会社をやめた。今何しているだろうか。

僕は、一度警察のお世話になっている。どうしても勘弁できないやつを追い回して警察がやってきた。傷を負わせなかったので前科になら無かったが、もしそうだったら刑務所に入ることを厭いはしなかった。どうなろうとも自分が守らねばならないものを守ることの大事さは分かっている。

この男は、訴追されなくとも、自首してきちんと罪を償うべきである。もし、全く関係ない人間が壇上に上がって殴ったら、訴訟される。自分が殴っても罪に問われないとわかっていたから出来たことだ。

独裁者なら銃殺していたであろう。こんな卑怯な奴はいない。
これから、どう転ぶかが楽しみである。この男のパワハラ話がどんどん出てきたら面白い。映画もつまらないしな。

人の外見はみな違う。ただしい外見などはない。


その人の尊厳を踏みにじることを目的に、軽口や冗談で、他人の外見をアゲツラウべきではない。自分に嫌なことがあっても他人の外見や変えようのない物をあげつらってはならない。
しかし、同時に、「タブー」にしてはならない。
その人が勇気を持って自分をさらけ出している時に、目をそらしてはならないのだ。彼らは、共感してもらいたいと思う。カミングアウトというのは社会を変える。
私達は生きていく時に否応なくタブーを作る。PCR検査がいかに私達を分断して苦しめたかわかるだろう。しかし、それを乗り越えて同じ人間として共に生きなければならないのだ。
もはや、あの男の奥さんを見たりしたら、お前いま馬鹿にしたろうとあいつが殴りに来るのかもしれない。暴力は共感さえも排除する。タブーの一変種である。

僕はII型糖尿病であることを隠しはしない。30代の始め、牛丼とカレーばっか食べて体重が120kgになったと話すと、哀れみの目で蔑まされる。
しかし、その時期僕は必死だった。自分として生きるために何かを身につけたかったのだ。
月に300時間残業した。週2回会社に泊まって土日にも定時(?)まで仕事した。データベースチームの責任者となって、無理に新人を押し付けられて売上を上げながら技術を学んだ。オフィス街で必死に自分の居場所を探していたのだ。そして今の技術を手に入れた。
そんな事を話すと分かる人はわかってくれる。

それでも、糖尿野郎だとか、お前の顔を見ると酒がまずくなると言われたりした。まあ、こちらもそういう「レイシスト」は御免こうむるが、ビンタはしない。殺されても殺しはしない。痛いからな。
世界は敵ばかりである。しかし、敵がわからねば、味方も見つからない。

「スタンドアップコメディ」という文化

公共の場での「ジョーク」は大事な機会なのだ。
言葉というものは、人を差別する。その内側に同じ人間がいるということを隠そうとする。
言葉と社会の乖離を吹き飛ばし、私たちの内にある弱さをさらけ出させる。そして同じ人間だということを感じさせてくれる。

「レニー・ブルース」という映画を見たのはいつ頃だろうか。時期はまったく覚えていないのだが様々なシーンを覚えている。youtubeで探したら素敵なシーンが切り出さえれていた。この動画の場面、素敵。泣ける。


ダスティン・ホフマンの主演映画では地味で話題にもなりにくいが、「真夜中のカーボーイ」についで好きな映画である。
まだ、芸人が僕ら庶民の内にいた頃のお話である。

同じ世界で生きようとしていた時代である。
そんな時代は、もはや消えてしまったのかもしれないが、まだどこかに見つかると信じたい。

アカデミー賞って大嫌い。


かつて映画は人を結びつけた。同じ人間であることを信じさせてくれた。映画館で共に過ごす時間は例えようのないものであった。
今や、「著作権」と言う金のなる木は僅かな「キャピタリスト」に無制限の富を与える。
映画一本とるのにどれだけの「クルー」が時給で働くだろうか。そして彼らにはおこぼれはない。
大量の宣伝で多くを売り(昨今では配信と言う賃貸し)「娯楽や時間つぶし」でしかない。でかい画面でどこかの星の物語のスペクタルなどを見ても、明日からは会社や学校でパワハラ三昧され放題である。

社会の矛盾や怒りを描くことがあってもそこで終わり。昨今の映画は共に戦いたい気持ちにはならない。なにせ、演じている連中は大金持ちである。
僕の入場料が、「猿」のきらびやかな衣装と、それを回している連中の富に変わると思うと腹が立つ。

結局は仲間内の仲良しクラブなのだ。
これも1980年代に分水嶺が有る。かつては大スターでも質素であった。
昔の映画が好きだというのはそういう事だ。


この話に続きます。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。