良いお店を探し愛すること。丁寧なプロセスで作られた味、自分の延長としての食事
僕の街では、2010年前後から、町中の肉屋さんは、どんどん無くなっていった。コンビニとスーパーで生活に必要なものはみな揃うし駐車場も有る。
商店街に一軒コンビニが出来ると商店街は滅びる。
サンゴ礁にオニヒトデが食らいつくように商店は消えていく。とは言ってもオニヒトデには罪はない。サンゴ礁が良いというのは勝手な思い入れである。その環境に合わせて生態系は形を変える。
問題は、商品化された食事が私達を苦しめる「病因なき症状だけの病」を生んでいるということである。そしてそれ以外の食事を見つけることが非常に困難であるということである。
まずはタバコ屋・酒屋が消えた。いつの頃からか、年齢確認が必須になって町中のタバコ屋さんの店頭にあった自販機が廃れたのだ。24時間のコンビニは便利なものだから仕方がない。家の冷蔵庫の延長となったのだ。
惣菜屋が無くなり、日常品や文具屋さんが消えて、跡地には新たなコンビニが生まれる。商店街は住居と商売が一致しているので、商売がだめになっても二階に住民は住み一階はシャッターで閉じられる。
少し広い駐車場が作れる敷地にはスーパーが生まれた。
コンビニとスーパーは食事のサプライチェンの一端となって家庭への食事の供給元になる。かつて家庭の台所で食事は作られていたがもはや違う。「食物連鎖」のスタートはどこか遠くの工場へと変わったのだ。
仕方ないことだが、覇を握ると「質を落とす」のが「競争を失ったマーケットの常道」スーパーの惣菜の質は落ちていくっばかりである。
しかし、賞味期限、成分表示はクレームが来ないように完璧となった。「政治的に正しい食品」である。
かつて、家庭で素材から作った料理が当たり前だった時代に、肉屋さんはお客さんを引きつけるために「お惣菜」を売り始めた。
未だに僅かに美味しいお店が残っている。
「ふじくら肉屋さん」はすごく美味しい。自宅を改造した惣菜屋さんはすばらしい。時折、食べたくなって、買ってくるのだ。
店頭で、お母さんが丁寧に作っている。それだけでご馳走である。
新発田には肉屋さんがもう2−3軒残っているのである。魚屋さんは、もう随分減った。
昼は天ぷらと細うどん。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。