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「コロナ殺人ワクチン」の生命観、戦争とは市民の命を燃やし企業が利益を得るもの。

ようやく、「コロナ殺人ワクチン」が人を殺していることの記事が出始めている。

「ゼロリスク」を求めているのではない。

接種数が多くなればなるほど事例が出てくる。接種する前から「死者は出る」と言っしているのだから恐ろしい。死者やそこまで行かない被害者がでたときにどの様にフォローするかが明確に決まっていないのはおかしい。

僕が言いたいことは、「薬害」が起こることがわかっているのなら、その時に「家族」にどう寄り添うのかを決めるのが筋である。個人がコロナワクチンを接種するということは行政に免責を与えたわけではない。もしそうしたいのなら、ワクチン接種承諾書にサインさせてから打て、「ワクチンが原因で死んでも行政や製薬会社を訴えません」という書類を作れ。

どちらにしても、メーカーも政府も免責される(おそらく)。

過去の薬害を考えてみても因果関係など証明されるわけがない。公害裁判でも国の証人は東大のお偉い教授、そして因果関係を証明する頃には被害者は死んでいる。

そもそも、その人に起こることがわかっていたなら医者も接種しない。しかし、賠償責任を厳しくすることで製薬会社は慎重に薬を作る。

医療というのは侵襲的である。それ自身が身体を壊すのだ。病よりマシだから医療の力を借りる。しかし、「予防医学」と言うパブリックな圧力は「健康」であっても「侵襲」する。

だから、自分がやがて来る病で死ぬか、予防医学の「侵襲」で苦しむかの選択ができなくてはならない。それが「患者の意思」である。しかし、専門家(権威)以上に病を知らなければできないことだ。

ワクチンを打たないことは全体に対して「反逆」だという理論がまかり通っている。子宮頸がんワクチンのことを考えれば分かる。

ココが問題なのだ。ワクチンに限らず多くの医療事故は起こることが「確率」でしかわからない。そして、全体のために「被害者」は我慢するべきだという理論である。そしてワクチンは金になる。

「パブリック」のために命が失われてもいいということである。

多くの人間が生きるためには、少しの人間が死んでも仕方がないという論理である。(この原則については、当たり前だと思う)。社会の中でトリアージュはおこる。救命ボートの救える人数が乗員を下回る場合を考えればいい。

しかし、問題はこの原則が「コロナウイルス」の流行に当てはまるかである。そもそもワクチンが効果があるかどうかさえも疑問である。100%効果あると言って始まったのにもう効果のない言い訳ばかり聞こえる。

「ワクチン」が病(=感染)を防ぐというのはもはや間違えであることは明らかである。感染しても症状が出ない人が多くいることを考えれば、感染を防ぐことが大事なのではなく「症状が出ることこそが問題なのだ。なおかつ、今の医学の考え方では『なぜ重篤化するか』については分からえていない。

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今やワクチンを拒否するのは非国民扱いである

マスクの問題を見てみても、効果があると医学者は言う。統計的事実だと言ってマスクと感染の相関関係を図式する。しかし、そんな物は何ら因果関係を証明しない。

飲食店の営業短縮要請にしても医学的なエビデンスなどというものではなく、一般市民の「気持ち」に迎合したものである。令和の禁酒法と呼びたい。この「令和の禁酒法」は医学や行政の無責任さを明らかにしている。行政に対しての不信感を確定させた。何よりも、お店の営業を制限しながら家賃収入者の営業は制限していない。家賃を免除する徳政令を出せよなあ(笑)。

濃厚接触を禁止するならばセックスも禁止しろ。後年、この時期のセックス率(出産率)がわかった時面白いだろうなあ。自宅軟禁させられているリモートワーカーがどう影響するか。減ったりしたら面白い。夫婦外のセックスも減っているだろうから。

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ワクチンの効果に疑問を呈するのは『陰謀論者』で『無知』な『低能』の馬鹿だと言われる。僕は陰謀論者で結構だ。医者の用意するエビデンスは嘘ばかりである。何よりも私達を幸福にしていない。

医療費というのは医者の給料であり、製薬会社の売上のもとである。

僕は、「健康という価値」を利用して金儲けいしている連中が気に入らない。

コロナの対応を戦争となぞらえる連中がいる。まさに戦争である。市民の命を燃やして製薬会社は利益を得ている。

ワクチンが効果がないということを言い訳するのに「変種株」などというおかしな言葉を作っている。大昔からわかってきたことではないか。やっぱ、医者はインチキ叔父さんである。

ウイルスは一定時間で変異する。世界各地で変異は起こっているのだ。今更水際などと言っても関係はない。発見された土地の名前を冠するのも「コロナ」を化け物にするのに一役買っている。

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医学の持っている生命観

ヒトがてっぺんにいる「ピラミッド」で、その下に食べ物にする動植物が連なり一番底辺には「細菌」「ウイルス」がいる。そんな図式である。そもそもパンデミックという言葉自身が人間中心の考え方である。僕は大嫌い。

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少し前の本では有るが、栄養学の本である。誠に馬鹿じゃないかと思う。死んだらヒトはその躯(ムクロ)を微生物に分解してもらう。そして、その肉のうちに生きていたマイクロバイオームは新たな生を迎えるのである。身体に宿る意識から見たら死は苦痛かもしれないが、その身体の内に生きる生命からしたら新しい「世界」で生きる開放である。生きることは苦痛の連続である。しかし、新たな生命として自由を得るのだ。そして永遠にそれは続く。哲学的である。

1960年代ならばそれでも良いが、顕微鏡とDNA解析(PCR検査もその一種)は全く違った生命観を見せてくれているのだ。生命はマイクロバイオームのコロニーであり、その内側には海が満ちており、受精卵由来のDNA (=細胞のプロトコル)を持つ小さい生命とそれ以外の生命に満ちている。互いに補い合いながらコロニーを維持している。

DNAは全体の設計図ではない

ウイルスはそのコロニー同士の間を行き来する瓶に入った手紙なのだ。細胞は環境に対して、常に変化しながら適応している。「進化」と呼ばれるコロニーの形態が変化する現象は表面的な形の表れでしかない。DNAは全体の設計図ではないのだ。

正常・異常と僕らは生命を分ける。しかし、生命を観察して見えるものは、環境に対しての「細胞達の当たり前の反応」でしかないのだ。僕は生活習慣病と向き合うことで病は決して異常なことではないと知った。「生活習慣病やその合併症・難病や膠原病」とは、身体を構成している小さな生命(細胞)が死んで機能が失われた状態である。一部の細胞は、過去を記憶するために一度死んだら生まれ変わらない。心臓・脳(神経)・受感期間(目鼻口耳舌)内分泌(膵腎肝)などの細胞は生まれた時に分化した細胞が死んだら機能は終わる。再生治療のターゲットであるが、そもそも再生治療は無理筋である。僕の膵臓はすでに力が弱いが、60年の僕の人生の経験を持っった細胞を試験管で作れるわけがない。生まれたときと同じパーツができたとしても、今の僕ではない。これが死の意味である。死とは生きたことの証なのだ。

細胞の一生

ダーウインの時代ならまだしもマイクロバイオームを生命の主体と見れば、明らかにそうなるのだ。エピジェネチック、オートファジーいずれも細胞(マイクロバイオーム)を生命の主体としてみている。

身体はコロニーに過ぎない。サンゴ礁や森の姿を見ているだけなのだ。そのコロニーを形つくっているのは「サンゴ虫」であり「木や草」なのだ。

犬を飼え

セックスはマイクロバイオームが乾燥状態から自分を守るために作った「植物」「動物」の間を行き来するためのものだ。DNAを持った生命の行き来ということを考えれば、コロナと全く違わない。不倫をしたくなったら犬を買うと良いと映画のセリフにも有る。僕はマユとそういう関係なのだろうか?

勝手に死なれては、金にならない

老人は、金のなる木である。医師や製薬会社にとってはとATMのようなものだ。勝手に死なれたら困るのだ。

年取れば、身体というコロニーの機能は失われていく。その機能を補うために沢山の薬を処方され、同じような手術を繰り返し、「経管栄養・胃ろう・輸液(点滴)」で生かされ、やがてミイラのようになって記憶の感覚もないままに死ぬ。「医者は頑張ったね、ありがとう年金ATM」と褒めてくれるが医者のや製薬会社の社長の高級車や豪華な生活のために頑張りたくなぞない。僕は野垂れ死にで結構である。

平安飢饉

健康でいたいというのは誰もが同じ気持ちである。その共通の価値を「パブリック」とするのは何ら問題はない。そのパブリックから利益を得ている「餓鬼」こそが問題なのである。平安の時代は飢餓や疫病を餓鬼と描いている。今の時代の製薬会社や医者の姿である。

コロナで死ぬのは自己免疫疾患である。コロナが特定の毒素を生んでいるのではない(O157などはヒトの代謝系に作用する毒素をつくる)。重篤化は膠原病や難病と同じく、その人がどんな食事をしているかによって起こるかどうかが決まる。自己免疫疾患=炎症が身体のそこらじゅうで起こる「膠原病・難病」は食事で起こり、入院して食事が変わったらケロリと治る。

もっと、重篤化の例をきちんと分析してもらいたいものだ。きっと僕の食事メソッドは効果がある。若い頃、よく風を引いた、咳は出るし咳止めシロップが必須だった。今では全く必要ない。何年も風邪を引いていない。

身体というコロニーの内では、個々の細胞が環境に向き合いながら変化している。コロナの変異種に対抗して細胞も変異しているのだ。細胞の素材が身体の内なる海に満ちていなければならない。食材の内の細胞が「乾燥・濃縮・抽出」を通らないで取り込まれる食事だ。そして伝統的な手法が重要だ。長い時間の内に家族が維持してきた食事には意味がある。

僕の食事メソッドはコロナにも効く(陰謀論である)。

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セクシーである。

オリンピックに参加するのに免責同意書が必要になるというのは面白い。

なにせ、オリンピックはスポーツ選手の飯の種である。ソ連ではメダル取ると潤沢な年金が保証されたという。日本でも同じである。メダルと取れば、とんでもない富と栄光の未来がまっている。上のいう事聞いていれば国会議員にもなる。コーチや指導者にも美味しいテレビの特番に出演して上手く行けばコメンテーターにもなる。

免責だろうが、なんだろうがヤルに決まっている。僕だって、金もらえるなら何でもする(笑)。しかし、命をかけて頑張ってもらえる報酬の何十倍という金をコイツラは手に入れる。

猿回しは猿に菓子やり、客の投げ銭をさらう。

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#オリンピック  #パブリックの研究 #コロナ #殺人ワクチン #陰謀論

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。