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「リフィル処方箋」って不要の薬をどんどん売る仕組み

「リフィル処方箋」で便利になったなどと思ってはならない、医師の役目は本来患者の苦痛と向き合うことである。「家族」が担っていた役割なのだが「家族と言うシェルター」はあっさりと崩壊した。
調子が悪いと言えば、「家で寝ていなさい」でなく医者行ってとっとと仕事行きなさいと言われる。

僕は長く糖尿病の治療を受けていた

制度は社会を映す。医者に行っていた頃いつも待合室は老人で満杯であった。

診察は数秒、前回の検査値をちらっと見た医師が「血糖値のコントロールが上手く出来ていますねえ、素晴らしい」と褒めて、カーテンの別室で採血して終わりであった。

薬飲んでりゃ当たり前に血糖値は下がるものだからただそれだけの話しなのであるが、アホらしかったものだ。

慢性病と言われる検査値の異常への投薬には医師の所に行かなくてもいいようにするのがリフィル処方である。もちろん、レセプトで医者が損をすることはないように考慮されるであろう。
アイツラはそういう仲間なのだ。

母が薬から自由になり、この2ヶ月後になくなる。3人でドライブにいった最後の時の写真。薬を取り上げる僕に母は気が狂ったようになったものだ。あのときは、嵐のようであった。

母は、歳を取る恐怖から、毎週のように医師のもとに行き苦しさを訴えた。

医師は、マニュアルに従い薬を出す。何も悪いことではない。
もしかしたら医師は本気で「薬が患者から苦しさを除いてくれる」と思っているのかもしれない。
そんな事はできはしない。世界は教科書に書かれているようには出来ていないのだ。医師は、教科書に書かれていることを信じるのが仕事になってしまった。


年を取ることの苦痛は医師自身はまだ体験していないことなのだ。僕は父母に教えられた。

医者にかからないで、死にたいものである。

母が断薬出来たのは毎日僕が食事を持っていった後である。食事には力がある。その力は、売られている食事にはない。伝統的なプロセスで作られた食事にあるのだ。
食事の力とは『生命=生きていた食材の内に存在している「タンパク・脂質」の立体構造』を維持したままの食事である。決して神秘的なものはない。私たちの身体は正直に食事の内の生命を見つける。
オーナーシェフのレストランでの料理が美味しいのは手間をかけて作られた料理だからである。最低の時給でレンチンで出される料理がまずいのにはわけがあるのだ。

自分の老後を考えると、恐ろしくなる。

既に、家庭料理という伝統は絶えて、競合相手が居なくなった「食事市場」はフードキャピタリストの思うがままである。工場で作られた形よく「強烈に美味しい」食事は私達を少しずつ殺す。

そして、生命のない食事は、ヒトの身体をそれなりのものにする。

無論、年には関係なく「難病・膠原病・ガン・検査値の異常とその後に続く臓器不全」は蔓延中である。

検査値と災厄に因果関係があるという「専門家のご神託」は「薬を飲めば治る」と思い込ませるのだ。決して薬は直さない。よく効くが、検査値を変化させるだけなのだ。
ヒトの身体は巨大な複雑系である。円周率と同じでどの瞬間も繰り返されることはない。医学はその一瞬を垣間見てすべてを知ったように吹聴する。

僕の弁当食ったほうがいい。

そんな人生の終りを迎えたくない。食事の価値を信じる人と、食事を共にして生きていきたい。

#リフィル処方

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。