ピーマン肉詰め、豆腐煮付け、もやしサラダ、焼きうどん、血糖値は食事の反映
昨日は一食しか食べなかったが、体重は増えて驚いた。
ダイエットしている時に食べなくとも太る事はある。医者は「飢餓対応」とよんで人の身体の適応性を称賛するが、バカじゃなかろうか。
「言葉遊び」でなにか説明されたような気になる僕らのほうが悪いのだが。医学における多くの「説明や警句」は空虚で人を馬鹿にしている。
「バランスよく食べると健康になる」と言われたところでバランスの定義は「健康であるかどうか」であるのだから、不健康になったらバランスが悪いのである。「運動すると元気な年寄になる」元気でないということは運動が足りないのだから、努力が足りないのだ。
医者は免責される。悪いとは言わないが、褒められたものではない。
血糖値が高いと身体がぼろぼろになると脅かされるが、それ以外の要素はなにもないのだろうか?血糖値さえ低ければ良いのだろうか?
血糖値は低いのに、腎不全を発症(腎不全は病気ではない、身体の状態である)して透析が始まる人がいる。精密検査をして、尿酸が高いと痛風性腎不全と名付けられて、何もないとウイルス製の自己免疫疾患だと言われる。それで納得するから、アイツラはズにのって患者の役に立たない警句を並べる。まあ、信頼されることが詐欺師の条件であるのだが.........…。
健康診断やがん検診などというものは、星占いほどにも役に立たない。
占いは外れて終わりだが、健康診断は「高度治療という金になる侵襲」への招待状なのだ。
血糖値がどのくらいになっているかと思いはかることにした。僕はバリバリの「糖尿病」である。30歳の頃に糖負荷検査で判定された。その時は一気に体重を25kg減らして血糖値も正常になったが、血糖値は生活の反映でしか無いのだから、生活を変えようもない時給で自分を売る生活が続く限りもとに戻る。「病因のない病」は治ることはない。
その後は治療を受けたり辞めたりの日々であった。
2015年、眼底網膜症で失明すると宣告されてそこから医者の言うことを信じるのではなく自分の身体に食事で向き合うことにした。
糖尿病は「幸運な病」である。食事の影響が即座に血糖値に反映されるのだ。「食事」がどう自分の身体に反映されるかがよく分かる。
今の私達を苦しめている『「病因のない症状だけの病」ガンや膠原病、リュウマチ骨粗鬆症、一生終わることのない投薬、認知症と呼ばれる誰にでもやってくる身体の状態..…』は50年前には存在せず、「病(効く薬がある身体の状態)」とは認識されていなかった。
高度治療と延命処理+ICUそして、「治さないがよく効く薬」がプレゼントしてくれているのだ。
僕はピンコロな人生の終わりがいい。
おそらく、(僕のような糖尿病のヒトの)血糖値が上がらない食事は正解ではないかともう。
「炭水化物」で満腹にならないで、「乾燥・濃縮・抽出」工程を通らない食事、伝統的なプロセスで作られた食事こそがそんな食事ではないかと思う。
毎日続けることが大事。毎日続けるには自分でやらねばならない。
時に奔放な食も良いかもしれないが、食べてしまえば後悔しか残らない。
落ちるように寝てしまった。いそいそと後片付けをする。1日の始まりはきれいな厨房からである。
食洗機を修理したので今日は楽しみである。上手く洗えるであろうか。
この静寂な時間が好きだ。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。