幸運な病のレシピ:「レシピ」を自分の料理にするために
生まれたときから料理が出来る人はいない。かつて「家庭」というレシピを記憶していた「構造」が有った。そこではその地域(食物連鎖の流れ)で取れる食材の「採取〜処理〜調理〜配膳〜始末」を維持する。厨房仕事は複雑で徒弟的OJTで伝達される。そして一つの食材は年間のごく短い期間にしか現れないから、習得に時間がかかる。3世代の同居と、家族(専業主婦とおばあちゃん、そして子供)を維持できる生産力(夫の給料)がそれを可能にした。今は昔の物語である。
家族の食事を作るということ
「その人」の遺伝形質や食事体験を記憶して「家族」向けにチューニングする。食事とは極めて個人的なものであり、過去の記憶と未来の自分の接点であるのだ。
家族は、長い年月の間に、多くの生命の誕生と死を繰り返してきた。そしてそれを記憶してきたのだ。年寄りは、過去に起きたトラブルを伝え、変化を記憶する。嫁は他の集団の新しい知見を持ってくる。やがて、嫁は母になり、子供も同じ様にトレーニングを受けて「生命」を学ぶ。
1980年代の大きな社会的な変化が、このトレーニングの場(家庭)を失わせた。確かに形は残っているが、それは経済の消費の単位であり、家族の持っていた機能は外注化(行政ー>企業へ委託)された。かつて家族が維持してきた「教育・医療・介護」全ては失われたのだ。
食事に関しての問題
「医療」の専門家に全てを委託したのだ。しかし、専門家は誰にでも効く処方箋があると信じている。そんなものはないから今私達は苦しんでいるのだ。
そして私達は商品化された食事を買うほかなくなってしまったのだ。現在の食品市場を見てみれば『定年後健康寿命』の問題はまさに食事にある。
どうしたらいいのだろうか?
毎日食事を作ることは困難だ。家族の食事を作ることはもっと難しい。いくら作っれも口に合わないと食べてくれない。食事が関係の中でディールとなっている。そんなことなら店だ買って食べたほうが良い。
けどね、僕はこの数年の血糖値と向き合った日々で気がついた。「商品化された食事」こそが乗り越えるべきものだと。
「食事の価値」を信じなければならないのだ。そして、美味しくなければならない(ある程度ね)。
毎日作りながら学ぶ。最初から上手な人はいない。失敗したら何処が悪いか考えて変えてみる。諦めないで何度も繰り返す。できるだけ効率的な方法を考える。食べてくれた人の言葉に腹を立てないで謙虚に受け止める。
男と女の平均寿命の差はなぜ?
年取ったときのことをいつも考えよう。一人きりになった時にどんな食事を食べているか想像しよう。
缶チューハイとおにぎりの年寄になるのは誰も望まない。男は大体そうなる。男と女の平均年齢が違うのは、食事に原因が有るのだ。素材から食事を作らないとあっという間に死ぬ。だから女のほうが7-8年長く生きる。
これからその差は縮まっていくだろう。男も女もおにぎりと缶チューハイの老後になるからだ。
毎日素材から食事を作っれるだろうか?
僕はそれが出来るか確かめようと思う。「幸運な病のレシピ」はその記録なのだ。
やがて、母のように鍋を焦がして料理をできなくなる日も来るだろう。その時にどんな世界を僕は見ているだろうか?楽しみである。
社会の変化は経済が主導する
1980年代「ダブル・インカム・ノー・キッズ」と言うライフスタイルが素晴らしいものだと言われた。一人の給料が家族を支えることの出来る水準だった時代だ。その金額を共働きで2倍、出費は教育費がいらないからその金額でゆうゆうと生活する。年一回の海外旅行と毎週末の豪華なディナー、食事はレストランやケータリングを楽しむと言うことだ。
しかし、良いことは長く続かない。労働市場のグローバルな流動と低価格化である。労働組合が強い限り賃下げは難しい。商品やパーツが海外でも作られてそれを輸入すると言う形で、労働者の賃金を低価格にすることが出来たのである。
今やダブルインカムで収入はギリギリだ。格差の下の方で暮らすほかなく、子供を育てる余裕もない。定年後も家賃を払い続けることになる。そんな人生しか見えないのに、鬱にならないほうがおかしい。
の賃金をグローバリズムは社会インフラの整っていない国での採算により、低賃金の労働力を手に入れることができたのだ。当然、生産は海外に移り、多くの問題が起こる。それはまた今度の話。そして、格差は固定され、食事の価値は下がっていくのだ。今も解決する兆しは見えない。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。