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「学校」としての大学.

こんにちは.研究と教育のピア・サポーター 吉川正剛です.

大学で職員として働いていますので,大学関係のニュース・SNS等でのつぶやきにはやはりいろいろと思うところがあります.

自分がかかわっている大学生が,大学のことを「学校」と呼ぶのは違和感があるのですが,SNS等で「大学は『学校』ではありませんよ。日本中の誤解を解きたいな」(Twitterで私宛に届いた返信ツイート)などと言われると,それこそ「大学が学校でないなんで,それこそ不見識で誤解を解きたいな」とも思うわけです.

日本の場合,法的には誤解の余地なく「学校」です.

ここでは「学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする。」(第1条)と明記されています.この条文は,1947年の学校教育法制定以来,「大学」を「学校」と定めているのです.

もちろん,小学校・中学校・高等学校・中等教育学校のような,「初等中等教育」と呼ばれる教育を行う学校と大学とは,質的に異なるのは当然です.

では,私にこのツイートを飛ばした方が「日本中の誤解を解きたい」と息巻くほどの「誤解」とは一体何だったのでしょう.

大学は,12世紀の中世ヨーロッパに起源があると言われます.

その頃の大学は,聖職者,医師,法律家などの専門職を養成する機関でありました。大学の出発点は紛れもなく「教育機関」であり,しかも「職業訓練のための教育機関」です.

1810年にベルリン大学が創設されますが,この大学は,それまでの大学とは異なる画期的な理念に立脚していました.すなわち,「フンボルト理念」と呼ばれる理念です.

ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは,「ベルリンにおける高等教育施設の内的・外的構造」という論文の中で,次のように述べています.

大学では,学問をつねにいまだに解決されていない問題として扱い,たえず研究されつつあるものとして扱うところに特徴がある。
大学では教師と学生との関係は,それ以前の学校での関係とは違っている。大学では,教師は学生のためにいるのではなく,教師も学生もともに学問のためにいる。(文章は,潮木(2008)によった。)

教師だけでなく,学生にも研究を求めるのがフンボルトの主張です。

潮木はこう述べています.

それまでの伝統的な大学観,学生観,教育観,学習観では,大学とは知識を教える場であり,学生が大学へくるのは,その知識を学び取るためであり,教師とはそれを教え込むために大学にいるとされていた。
  (中略)
知識が進歩するとすれば,大学は何を教えなければならないのか。教えるべき知識が進歩する以上,すでにできあがった,既成の知識を教えるのでは,やがては通用しなくなる。そうであれば,大学が伝えるべきことは,いかにして新たな知識を発見するか,いかにして知識を進歩させるか,そのための技法である。
(中略)…フンボルトをはじめ,当時の思想家たちが構想したのは,こ  うした大学観であった。(潮木,2008)

つまりフンボルトが目指したのは,学生が問題解決能力を身につけるような教育を提供する教育機関だったということです.

同時にこのことは,大学がつねに学問の未知なる部分を解明する場であり,時代の最先端,社会の最先端を行く存在であるべきことを義務づけられたということでもあります.

このゆえに,大学では研究が重視されているのです.

しかし,フンボルト自身は大学が教育をしなくてよいと言ったわけではなく,「教育と研究の統合」を目指したのです.そのことは,同じ論文の以下の一節からも明らかです.

高等学問施設というのは,…学問を研究すること,ならびにその学問を,知的ならびに道徳的陶冶のために…教材として活用することに献身しようと覚悟したときになりたつものである.(梅根悟訳,1970)

現行の我が国の学校教育法も,その理念を受け継いでいます.

大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。(第83条第2項)

「研究」と「教育」でもなく,「教育・研究」でもなく「研究教育」でもなく「教育研究」なのです。

この点は,高校までの学校や,専修学校,各種学校等々の教育機関と大学の大きく異なる点です.フンボルトは「高等学問施設を堕落させないために,それを学校から(一般的理論的な知識を教える学校からだけでなく,とくに実際的な知識を教える学校から)潔癖に,頑固に切り離すこと」を主張しているのも確かですが(梅根悟訳,1970),それでも「教育」を大学の使命として二の次三の次で良しとしたのではないことに注意が必要です.そして大学が教育機関の一であるという点において「学校」であるという観点に我々大学人は立脚する必要があると思います.

このことが了解されるならば,「学生は,最新の研究をしている教授の教授の講義を聞きたくて集まる.」という「大学のイメージ」も,実はフンボルトが目指した大学像からは「誤解」であるということができるでしょう.「高等学問施設」の本質は,「外面的には学校の卒業と研究活動とを」「学者自身の指導のもとに結合すること」にある,とフンボルト自身も述べているとおり(梅根悟訳,1970),大学の本質は「講義」ではなく「演習」であり「実験」であり「実習」にこそあるというべきです.これについては,稿を改めてもう少し書いてみたいと思います.

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