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古文と漢文を学んでいて思ったこと

古文、漢文が入試に必要かは知らないしその目的も知らない。
でも、古文や漢文などの文章とそれが書かれた背景である歴史を結び付けることが出来たり、結びつけながら教えることで興味を持ってもらうことはできるように思うし、そちらの方が相互的に面白いものだと実感できるのではないか?

英語や古文、漢文、いや言語全体において「文法」というものが初学者には付きまとう訳だけれど、それに魅入られて突き詰める人っていうのは正直言って全体の数%に過ぎない気がする。
では他の人達はなぜ学ぶのかって、
「その言語を道具として目的を達成するため」
にほかならない。

古文、漢文が「入試にいらないのではないか」となる理由は「現実的に必要になる確率が低いから」と思う人間が多いためだろう。
逆に英語は必要だと思うのは、現在も話されているし、出てくる内容は現実に即していたり、最近のことだったり歴史的な文章だとしてもその情景の説明だったり
「〝今〟という現実との対応関係が明確」なんじゃないかな。
それに対して古文や漢文というものは、分かりにくい。なぜならその時代の慣習、習慣、文化などが内包されているからだ。
だから難しいし、今と違うことを読んでもパッとしないし、ただ文法を学んでそれを使ってただ点数をとるしか使い道はないという認識になってしまう。
少なくとも自分はそうだし、未だやりがいがあるとか、楽しいと実感出来たことはない。
でもその背景と同時に学べば意味があるんじゃないかな。そしてそれと同時に歴史もよりわかるんじゃないか?
だってその時代に生きてた人達によって書かれた文だ。その時代の特徴を掴んでいるに決まっているだろう。

我々が戦争体験者の声を聞いたり本を読んだりすることと、「戦争」というもの自体を知ることによってそれが好ましくないものだと実感をいられているように、昔の人が書いた文章とその時代の事実を同時に認識し学ぶのであれば、その時代を理解しその時代の人達の考えや気持ちというものを、いわば疑似体験ができるのではないか。
そしてそれをもってして「意味のあるもの」「価値のあるもの」であるという認識を得られるのではないか。

そうでなければ「学ぶための道具」ではなくて「点をとるための道具」に成り下がってしまう。
それが良い事だと俺は思えない。
だからといってそれを完璧にこなして受験に挑むべきだと言う事は出来ない。
これは単なる理想論に過ぎないからだ。
これをやれば今よりも価値が明るみになると言う根拠も、教育委員会が何を目的にしているのかも知らない。

現状を受け入れてやる姿勢も必要だろうけれど、その現状に疑問に違和感とある種の楽しみ方があるのではないかと思った私の単なる戯言だ。

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