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愛は飾りモノでなくて


20XX年、ついに恋の病が難病に指定された。
歯止めの効かない少子高齢化、それに伴う出生率の低下、
政府の最後の最後の最期の切り札として、
ヤケクソと罵られながら、お節介だと嘲笑されながらも法案は成立した。
それから数年が経ち、いつのまにやら庶民の生活に馴染んできたところである。
これはとある病院の、
外科、内科、小児科、泌尿器科、精神科、ではなくて、
その隣にある恋愛科、のお話。


都心にある大学病院の中で、ひときわ空気の重たい場所がある。
ため息はその性質上、同じような境遇の相手を見つけると互いに手を取り肩を組む傾向にある。
結果隙間なく分厚い層を成し、スクラムを組んだため息たちは、今日もどんより目に見えない曇り空の様相で、待合室を覆っている。
しかし、ガチャと扉を開ける音とともに、その隙間から一筋の光が差し込む。

〈次の方、どうぞこちらへ〉

垂れ下がる光のロープにすがるような形で患者たちは診察室の中へ消えていく。今日も北沢の診察室の前には、恋を患う者が絶えない。腕利き、というよりは直接手に触れるようなことはしない、文字通り気が利くということでしかないのだが、オリジナルな処方箋が口コミで話題となり、メディアに取り上げられることもしばしば。
今、最も予約が取れない恋愛科の医師、と巷で評判だ。

これから一週間、人の誘いを断らないでください。

不意をつかれ、いまいち納得のいかない表情で、渡された紙切れ一枚をまじまじと見つめている。

処方箋は以上です。

以前ビールメーカーへ取材に行った時、広報の女性がインタビュー終わりの雑談でこう話していたのを憶えている。
「結局美味しいビールを出すお店かどうかを見極めるのには、ビアサーバーがきちんと手入れされているかをチェックしてみてください。」と。
北沢の、診察室とは名ばかりの部屋の一角にある小洒落たバーカウンターに置かれたサーバーは、金具の1つ1つ、どれをとってもピカピカに手入れがなされており、何でも好きなものを是非とのお言葉に甘えて、勧められるがまま、ビールを頼んだ。
看護師なのか助手なのか、シンプルなパンツスーツにすらっとした体型の女性が、目の前に音を立てぬようにコースターを敷き、そっとグラスを置き、
ストンと縦に落ちた長い黒髪をウィンドチャイムのように靡かせながら去っていった。
温度管理、泡の立ち方、その密度、加えてグラスの飲み口の薄さをもってしても、どれも絶妙なバランスを見せている。
問診というか、自然と世間話に始まり、1つ1つの会話のキャッチボールがテンポよく進み、あまりに話が弾むものだから、普段人に言えない真っ直ぐな悩み相談から、落差のあるくだらない身の上話まで、時を忘れて交わし続けるうちにタイムアップ。最後に、それではあなたへの処方箋をと言われた瞬間にようやく本旨を思い出し、我に返った。
病院でアルコールを摂取するという非日常への背徳感と合わせて、少々悪酔いしていたのかもしれない。感動の最初の一口を体感したはずのビールも、
いざ現実を突きつけられてしまうと、途端に喉に関所でも出来たのか疑いたくなるほど進まなくなり、苦味以上の気まずさを残して、診察室を後にした。

今に腹でも下しそうな雨雲と自分の表情をシンクロさせたまま、その機嫌が崩れぬうちにと、家路を急ぐ。
帰宅してまずはじめに無意識のうちにテレビの電源をつけ、途中のコンビニで買ったカップラーメンにお湯を注ぐ。テレビの笑い声が虚しく響いたとしても、自分の麺をすする音だけが鳴り響くよりはいくらかマシなような気がしている。
家で人が待っていてくれる、ということが、どれだけありがたかったか、どれだけ自分にとって救いだったのかを、妻が家を飛び出して半年が経った今、私は思い知らされている。
「もう男としての魅力を感じないの。」
最後に妻が吐いて捨てた台詞は、ガランと不必要に広いこの部屋の至る所に今も、この目に見えずとも散らかっている。どこから手をつけたらいいかわからないままに。
別居の理由というよりも、これ以上一緒にいる理由がなくなった、という方がきっと正しいのだろう。妻はサイン入りの離婚届だけを唯一残し、自分の荷物を全て持って、東北の実家へと帰っていった。
書斎の引き出しを開けて筆を入れさえすれば、あとは自分の気持ちひとつ。
自分は必死に、いや、ある程度必死に、それなりの熱量で、仕事を頑張ってきた。
出版社に勤め、政治、スポーツ、ファッション、いくつかの誌面を経由し、今は旅行、カルチャーなどライフスタイル全般を扱う誌面をいちから立ち上げ、それなりのポストを任される立場にある。
やりたくない仕事も、いつかやりたいことをするために。そう思って積み重ねた結果として、書斎の本棚に創刊から並べられている背表紙の面積が増えていくことに、それとなく満足感を感じていた。

画面の中ではクルーザーがイルカと仲良く並走している。テレビから無慈悲に流れてくる海外リゾートの特集。一番身近にいた人間を、たまの休みにどこかに連れていったことがあっただろうか。愛想をつかされた理由、思い当たる節なんてものは、身体を動かすたびに節々で骨が鳴るのと同じで、いくらでも思い出すことができてしまう。

昔からの幼馴染に言われたことがある。
お前は釣った魚に餌をやらない性分の人間だと。
確かに妻は職場の高嶺の花だった。同僚の皆から、取引先の皆からも一目置かれ、憧れの存在であったと思う。自分の身の丈には合わないと思って誰もが尻込みするなか、背伸びしても届かなければジャンプ、ジャンプして届かなければ梯子をかければいい。手を替え品を替え、餌を替え、罠を替え、そんな諦めの悪さも突き詰めればひとつ才能として花ひらく。釣竿を投げ続け、呆れられるまで口説き、ついに彼女の心を釣り上げて付き合うことができた時には涙を流して喜んだ。なんとも誇らしい気持ちだった。
年齢も互いに適齢期だったので、話はリズムよくトントン拍子で進み、
気づいたらそのまま三ヶ月後には籍を入れて結婚していた。
妻の希望で新婚旅行を兼ねたハワイでの、限りなく身内だけの結婚式は盛大ではなくても、相手方の両親も、自分の両親も、そして何より妻も、とても喜んでくれていたと記憶している。
ただ、我々の幸せはその結婚式の日を頂上に、それからほんの少しずつなだらかにその山を下っていった。
日々少しずつ雪だるま式に転げ落ちながら育った不平や不満は、些細な喧嘩のたびに雪崩になって、もはやそれを止めることなど叶わず、互いに相手を愛おしく思う感情をまるごと飲み込んでいってしまった。
リビングに飾られているその時の写真、いつからか観賞用になった指輪、引き出物としても配ったペアのシェルグラス。
なんだか遠い昔の、別の国の話みたいだ。
私は正直心のどこかで、この国を訪れてあの世界遺産を見てみたい、だとか、
有名なレストランでどの料理を食べてみたい、だとか、
ロールプレイングゲームのラスボスを倒したいような気持ち、
それと同じように、妻を、この高嶺の花を、どうにか自分のものにしてみたい、という、感覚でいたのだと思う。
まるで自分のアクセサリーのように。

愛は飾りモノでなく、壊れモノなんです。

ふと、今日の医師の言葉が思い出されて、自分の心の化膿していたところに、消毒液のようにポタリと落ちて沁みている。水やりを忘れているうちに花はまた新しい太陽を求めそっぽを向き、釣った魚は別の餌場を求めて海へ帰る他ない。
家で飲むときはロング缶1本までにしましょう。お酒が弱いくせに好きな私に、妻が作ってくれた我が家のルールだ。晩酌に付き合ってくれていた妻がいなくなってしまった分、今はちょうど倍の2本まで。
二週間に一度、定期的に玄関まで配達してくれている酒屋に、次から半分でいいということをずっと言えないでいるためだ。

眠る支度をすべて整えて、ベッドに腰掛けながら、今日の2本目の蓋を開ける。飲み終わった瞬間にそのまま寝落ち出来るように、ここ最近になって新しく習慣化されつつある、1日の終わりを告げるルーティーンである。
いつもより視界がぼんやりと揺れているのは、診察室でご馳走になったものを含めると実質3本目なのであって、蓋を開けてから気が付いてしまったのでそれはもう仕方ないと自分に言い訳をする。
明日の起きる時間に目覚ましをかけると同時に、今日渡された処方箋のことを思い出していた。一応の医師の言いつけを守り、一週間後の夜中の12時にもアラームが鳴るように、時刻を入力した。

どうやらこれから私は一週間の間、人の誘いを断らないらしい。

ベッド脇にあるサイドボードにここ数日の分と合わせてビールの缶をタワーのようにして積み置いて、瞼が少し重たくなってきたところで自分が考え事をするのやめるのを、ただ待った。



さて、一週間、人の誘いを断らない。
なぜか携帯するように指示された処方箋をジャケットのポケットに忍ばせながら、通勤電車のつり革に掴まる。
子供の頃に見た海外の映画でそんなようなタイトルのものを見たことがあるけれど、その内容はあまり記憶に残っていない程度の作品だ。半信半疑というよりかは、脳内選挙では疑う方が圧倒的多数で可決。そんなことで一体何が変わるんだろう。
出勤したフリーアドレスのオフィスでは、空いていればなんとなく景色のいい、通路側の一番背の高い観葉植物の隣の席と決めているのだが、今日は先約の背中が見えたため、他の空いている席を探す。以前一緒にチームを組んでいた後輩の久しぶりな後ろ姿をを見つけ、その隣に座った。

しばらくの間系列会社に出向していたが、この度また呼び戻されるとの噂を聞いたばかりだった。一回り近く年下の後輩も、しばらく見ないうちに随分と貫禄が出ている。
「久しぶり、どうよ調子は。」
机に置いたパソコンを起動させ、互いにながら仕事で、たわいもない近況報告や世間話などしていると、どうやら彼女ができたらしく、夜な夜な大量の晩御飯を作って待っているのが最近の悩みらしい。
「ところで先輩の方はどうなんですか。奥さんとうまくいってるんですか?」
と聞かれたので、自分の今の事情や、処方箋のことを出来るだけライトに、面白おかしく話そうとすると、
「じゃあ早速、先輩の奢りで今夜飲みにでも行きますか?」
と誘われ、気のせいかポケットの辺りが何だか一瞬熱くなったような。断る理由も思いつかず、その日の夜の予定が決まった。
なるほど、これは財布の紐をきつくぎゅっと締めなくてはならないかもしれないな、なんていうのは、ほんの序章に過ぎなかった。

特別な会議、打ち合わせでもない限り、出版社の朝の仕事はメールチェックに始まる。
月刊紙であればひと月ごとに、季刊誌であれば季節ごとに、定められたテーマのもとに企画を立案し、取材のアポイントメントをとること、それに対して必要な人材をキャスティングし、場所をブッキング、調整、原稿の進捗状況などを確認する。いくら科学技術が進歩しても、根本的な作業はアナログに始まる。月曜日はそんなメールが渋滞を起こしている場合が多い。
最近は政府の働き方改革の方針を踏まえ、土日はしっかり休むようにとの会社の指示に従い、私は余程のことがない限り、メールを開かないでいる。
それでも他者とやりとりをするのに、思い立った吉日が土日であろうと、メールしておく習慣はこの業種ではなかなか消えずに残ったままである。
週末分が上乗せされた数十件のメールに順に目を通していく。
そしてその中にひとつ、一際目を惹く、輝いて見えるタイトルのメールが視界に飛び込んできた。

【ハワイ・ホノルル企画のご提案】
送信元に目をやれば、付き合いの長い、得意先の広告代理店の担当からのメールだ。基本的には編集部の中で企画を立ち上げるものだが、外部の持ち込み、なんていうものも少なくない。
月刊の本誌の中に少なくとも1つは彼の紹介や、関係しているページがどこかしこにある。
もしかしたら仕事でハワイに行けるかもしれないな、なんて真っ直ぐなまでの下心で画面をクリックしてみると、
“日焼け止めの新商品プロモーション企画の一環で、その広告掲載と、それと合わせたホノルルマラソン密着記事のご提案です。以下概要をご確認ください。”
画面を下にスクロールさせながら、概要、趣旨、日程、予算、キャスティング、に目を通していく。
どれをとっても悪くない条件のように思えた。
ただ、最後にたった一行、こう添えてあった。
密着取材なので、担当編集の方も是非一緒に42.195kmを4時間以内で完走して頂きたく願います、と。

一時期、東京で五輪が行われて以降、盛り上がった運動、健康ブームみたいなものは徐々にフェードアウトしていき、時代はいかに体を動かさず、楽して理想の身体を手に入れるかにシフトしていた。勝手に痩せられるサプリメント、筋トレいらずの理想の身体作りを実現する機器、幾度となく自分もその特集を組んできた。
このご時世、一般人がフルマラソン、太陽にさらされながら数時間かけて42.195キロを走るなんていう発想は、下火も下火。
今の我が家の夫婦関係のように冷めきったものという認識だ。
本来ならば、丁重に、もしくは自虐的にお断りしようとしたところ、キーボードを触っていた手が無意識にジャケットのポケット越しに昨日渡された処方箋に触れていることに気づく。
確か昨日確認した際に、仕事の大切な判断に関しては例外、と注釈が添えてあったが、果たしてこれはその例外に当たるのだろうか。
また、この場合適材適所、編集部の他の誰かにその仕事を振るという選択肢も無きにしも非ず。
ぐるりとフロアを見渡してもう一度考える。
そもそも出版社という文字を扱う会社には、よほどスポーツや美容に特化した専門誌の担当でもない限り、運動が苦手だった人やそもそも興味のない人材が集まるのは必然である。
新しいライフスタイルを提案するという我がチームも紙面上の理想と対比的な、グルメの特集に時間もお金も捧げた腹回りや、日々日陰で過ごしている真っ白な肌、折れてしまいそうな枝のような足、どこを切り取っても見渡す限りフルマラソンには不向きなものがコレクションのように収集されている。
かくいう自分も、学生時代こそ野球にサッカーに青春に胸をときめかせる日々もあったものの、その頃から長距離走はてんでダメ。グラウンド10周の練習メニューの1周目でトイレに行き、9周目あたりで水を流して合流するのが定番となっていた。
バームクーヘンのように少しずつ年輪となって厚みを増した下腹のせいで、
自分のつま先が見えなくなっていることに気がついたのは、ついぞ最近の話である。

歳を重ねると、自分の好きなものを理解しているのと同時に、苦手なもの、嫌いなものを、予測し、自然と遠ざけてしまう傾向があります。新しいあなたは、苦手や、嫌いだと思い込んでいるものの中から、見つかるのかも知れません。

ポケットの中から、まるで昨日、北沢が自分に語りかけた言葉が幻聴のように脳内に響き、処方箋を取り出すも、なんてことのない、ただの紙切れである。
速やかに編集部の全体メールで共有し、誰かが乗り気だったら、やる。そうでなければ断りの連絡をする、という段取りをとろうとキーボードの上に手を置いた途端、自分の指が自分の意思に反して踊り出し、まるでピアニストのそれのように、PCのキーボードを叩く音を弾ませている。
取り急ぎ、条件確認しました、うちでやりましょう。詳細待ってます。
送信のエンターキーを押した後にようやく両手がいうことを聞くようになったが時すでに遅し。すかさず、それに対して、早速明日の早朝に顔合わせを兼ねた練習会があるので、スケジュールが空いていれば是非そこに参加するようにとの返信があり、事態はものの一瞬にして、先ほどのメールは手違いです、とはなかなか言い難いような状況へ。
どうやら明日の予定と半年先のホノルルマラソンの予定が、全く予想外な形で決まったらしい、自分の下腹をつまみながら、これも何かの縁と思うしかないのかと語りかけ、しばらく呆然としていた。

その夜、居酒屋で後輩にメールのやりとりの報告をすると、腹を抱えて笑いながら、
「そんなことあるんですね、二度とない、良い機会じゃないですか、応援しています。」
と、大雑把にテンポよく、幸せ太り真っ盛りの重量感のある張り手で背中を押すというか、ばちんと雑に叩かれるような言葉を贈られながら延々と酒を注がれ、注いでもらったお酒はルール上飲み干す以外の選択肢はなく、挙げ句の果てにはもう一軒、と、二軒三軒連れまわされ、気づけば近年おそらく飲んだことのない量のアルコールを摂取するはめに。
なんとか家にたどり着き、リビングに洋服を脱ぎ捨て、どうやらギリギリのところでベッドに飛び込んだらしい。
翌朝リビングに自分の抜け殻と、テーブルの上にお湯を注いだだけの麺の伸び切ったカップヌードルが置いてあるのを見つけ、いったい誰の仕業か疑ってみたが、財布の脇にあったレシートにしっかりと記載されており、すぐに犯人は特定された。
深酒が過ぎた。あいつ、私が断らないのをいいことに。
それでも不思議と目が覚めて、クローゼットの片隅でじっと息を潜めていたスポーツウェアに着替え、いつもより遥かに重い玄関の扉を開けた。

皇居の近く、四宅坂の近くにあるランステーションが集合場所になっていた。
昨夜の酒も抜けきらず、駅までの徒歩と電車の乗り換えで既に息切れをしている自分が、これから走ることなど無謀も無謀。
それでも待ち合わせ時間のしっかり5分前に到着すると、すでに3人のランウェアを着た人間と、明らかに自分は応援です、というのを態度で示すかのような革靴に白のワイシャツ、走る気配を断ち切った代理店の担当に出迎えられた。
ランニングウェアを着た1人目は、今回密着されるタレントの元新体操選手。
競技の方では大輪を咲かせることは出来なかったが、その美貌と人当たりの良さで、引退後のタレント活動で芽が出てきたところなのか、最近になってメディアでよく見かける。
その隣で屈伸をしているのは走れると評判の男性のカメラマン。
いかにもという感じで見るからにふくらはぎのあたりが隆起していて、数キロはある機材を背負って走る分、よりタフさが求められるであろうこの仕事、この手の企画を何度もこなしているのが想像に易い。専門職、マニアックな需要を満たすことができれば、少々のことで食いっぱぐれるなんてことはないに違いない、良い例である。
そして目の前で本格的なストレッチを我々に促しているのが今日のために雇われたという、ランニングコーチ。
仮にランニングの本気度を測るものさしとして、下半身の履物の長さ、と言うのは非常にわかりやすい。自分が大きくなったのか、それともジャージが縮んだのか、はたまたその相乗効果か。8分から9分くらいの丈の中途半端な長ズボンのジャージが、ストレッチで足を伸ばすたびに、余分に足首を露出させ、微かに目線を感じるのは自意識過剰か、いや、気のせいであることを願った。

入念なストレッチ、ウォーミングアップが終わったところで、代理店の担当が間に入り、改めて企画趣旨の説明とそれぞれの紹介があった。
一言だけ簡単に挨拶を添え、それではというところで動画用のカメラを回しはじめ、撮影とインタビューへ。
明るく、淀みない理想の形で問答は進み、残すはスチール、静止画で走っているカットと、終わりの感想がもらえれば、今日の撮れ高として充分。
「あとは走りながら行きましょうか。」
という話の流れでゆっくりとしたペースで走り出した一行。
風を切って、という表現はある程度のスピード感とスリムな体型が担保されて初めて成立するものであり、自分の場合は押し入って通る、というくらいが正しい。空気抵抗を人一倍感じながら、時に3人の背中を風除けにさせてもらいながら、なんとか食らいついていく。
また、皇居のコースは自分たち以外にも様々なランナーたちが周回していて、時折自分よりもひと回り、いや、ふた回り以上も年配のランナーが、あっという間に体の横をすり抜けて行く事実に、密かに驚愕していた。
序盤はなんとか隠していた呼吸の乱れも、二週目に入るとそんな余裕が続くわけもなく、身体を必死に上下に揺らしながら、呼吸音を周辺に響かせながら、やっとのことでまたスタート地点へ戻ってきた。
皇居2周分、およそ10kmを走る間、周りの景色を眺める余裕など皆無、
ぼやけて上下する他人の背中を、なんとか視界に捉えようとしているうちに時間が過ぎていた。

「では、週末にまた集まりましょう。」
次回の日程を確認したところで本日はお開き。
いやはや、なんとかなるもんだなんて、結果的に走りきった自分をほんの少し誇りに思いつつ、すかさずタクシーを拾い、社屋の中にあるシャワー室で身支度を済ませた。
予定していた打ち合わせをテンポよくこなしていく。断らないことで増えた追加業務を含めても、いつも以上の仕事をきっちりと、ひとつずつ丁寧に片付けていった。時計に目をやるとちょうど終業時間を少しすぎていたので、キリのいいところでパソコンの電源を落として、椅子から立ち上がろうとしたその時、力が入らず小刻みに震える両足にバランスを崩し、思わず両肘の下の手すりに掴まり、ストンと同じ椅子に、再び半強制的に座り直した。
自分の両足が、まるで他人のもののようにちっとも言うことを聞いてくれないのである。
もう一度手すりになんとか体重を預けながら立ち上がり、慎重に歩くこと数歩。戦術で言えば牛歩、いや、それでいて真っ直ぐにも歩けないので、カニ歩きと合わせ技一本の新しいスタイルで、最も痛みの少なく、移動しやすい体勢をなんとか見つけ、そのまま駅、電車のすべての手すりという手すりに掴まりながら、いつもの倍以上の時間をかけて家路に着いた。

いつも通りテレビの電源をつけて、いつも通り冷蔵庫のビールに手をかける。なんとなしにつけたテレビから、誰かの笑い声が聞こえてきて得られるほんの少しの安心感には、それに伴う虚しさが同居していようと、今日も助けられている。
ただ、いつもと少しだけ違ったのは、喉が余計に渇いていたのかビールがすぐになくなってしまったことと、睡眠導入剤を兼ねている2本目の蓋を開けずとも、気づけばぐっすり眠っていたことだった。

翌朝、遅れて本性を現した筋肉痛は、ガニ股の硬直を深刻化させ、あらゆる手すりに対しての依存をより深めながら、次の日も、なんとか無事に出社を完了させた。
ただ、そんな股関節周りの不自由さと相反し、一度仕事用の椅子に腰掛けてしまえば、頭の中だけは妙にスッキリしていて、テンポ良く原稿は進んでいく。近頃きちんと眠れていなかったんだな。自分の仕事ぶりと照らし合わせ、睡眠と仕事効率について、かつて自分が書いた記事の説得力をこの時ようやく実感する。
いつも以上に仕事が捗ると終業時間の少し手前におおむねの仕事を終えていた。せめて前日に少しサイズが厳しいと感じていたランウェアとシューズだけでも、新しいものを揃えなくてはと思い立ち、かつての取引先でもあるスポーツブランドの店舗へ向かうことにした。
到着し、せっかくなので軽く挨拶でもしておこうと奥にある事務所の扉を叩いたところ、突然のアポなしの訪問にも関わらず、かつての仕事仲間から熱烈な歓迎を受け、最新のコレクションを勧められる。ポケットに潜む処方箋が疼いている。
薦められるがままにショーウィンドウのマネキンとお揃い、フルセットを購入する羽目になり、このままでは財布にいくら入っていても足りない、なるべく高いものがあるお店に無闇に近づくのは避けようと決意し、3日目、4日目、は過ぎていく。

人の誘いを断らない、ということを心がけていると、良くも悪くもとにかく忙しかった。仕事柄会話を弾ませるために自分のルールのことを話題に出すと、余計に「じゃあ今度こんなのはどうですか?」
何なら「この後どうですか?」と予定は自然と埋まってく。
もちろん身体の疲れと比例しながらも、それに紐づいて起きる出来事から生じる、小さなかけらのようなものは、同時に心のひび割れていた部分にも、一つずつ降り積もっていった。
5日目、6日目の夜は、どちらも誘われるがままに、初めて行くお店で、初めて食事をする機会の人たち、と過ごした。
新しい出会い、新しい話題、好き嫌い、興味の有無はさておき、
それらは自分の中に新しい風を吹かせ、長年あった心の中にじめっと停滞しがちなものを、いつのまにか乾かし、あるいはどこかへ吹き飛ばしてくれたような、なんだか換気扇と似たような効能もあるのかもしれないと、帰り道のタクシーでそんなことを考えるようになっていた。

7日目、医師との約束、処方箋の効果の最終日。
風通しの良くなった心のうちを投影するかのような、雲ひとつない空。絶好の運動日和である。
しかし、2回目の練習の当日、正午過ぎに集まるはずだった4人のうち実際にそこにいたのは半分の2人。コーチはもともと他の仕事のため事前に欠席の連絡が何日か前に来ていたが、男性カメラマンは直前になって家の事情でとのことで、私と、元新体操選手の彼女との2人きりの練習になった。
「髪型お似合いですね、素敵だと思います。」
前日に訪れた美容室にて髪型をどうするか訊ねられ、いつもと同じでと注文するところを、処方箋の言う通りに、今日はお任せで、と美容師の考えにまかせたところ、「ずっと短い方が似合うと思っていたんですよね。」と照れるくらいに左右を刈り上げられ、涼しげな仕上がりを見せていたところだった。
年頃の女性と2人。いささか気まずさもありつつ、これも仕事のうちなのでしかたあるまい。
「せっかく準備して集まったので、この前と同じ要領で行きますか」
話はまとまり、10kmの道のりを走り出す。
いざスピードに乗り始めると、特に2人話すこともなく、淡々と、皇居を外周していく。前回よりも幾分辛くないと言えど、それはただ前回よりも辛くない、というだけで、ビールで仕上げた身体に負荷がかかっていることに変わりはない。
今日もまた必死の形相で、予定していた10kmをなんとか走り終えた。
腰に手を当て、上半身を屈めながら、体の中で大騒ぎしている肺や心臓のあたりを少しずつ落ち付けようとしていると、彼女も同様に肩で息を弾ませながらも、
「天気も気持ちいいですし、あと1周、もう5kmだけ距離を伸ばしてみませんか?」
と声をかけてきた。
私は咄嗟にNoというために口の形を縦に結ぼうとしていたところ、ギリギリのところで何者かに口元を横に引っ張られるような違和感を覚え、自分の意思に反してYES、の言葉を返していた。
「では、行きましょう!」
どうにもこうにも結果的に彼女の誘いに乗ったことになり、調子に乗って今度は15km。未知の領域である。
恐る恐る走り出してみると、踏み出す一歩の重たさはあれど、慣れてきた身体は、徐々に負担の少なく心地よく走るフォームを自然と覚えはじめていた。
心なしか3周目の景色は、いままでの周回の中で最も、
東京の都会的な建造物をくっきりと視界に捉えることができた。

一度妥協すると、諦めることは癖になってしまうのです。

人間は一度自分を甘やかし、ここまでやったら十分だという線引きをしてしまうと、それを繰り返していくうちに、線はいつしか溝のように深くなる。
そして、深い溝を意識すればするほど、それ以上先へ、一線を越えることができなくなってしまう。心を入れ替え、時間をかけて大きく助走でもとるか、誰かに背中をドンと無理やり押されでもしない限り、本当は飛び越えられたかもしれない場所にも、勝手に溝を作って届かないと思い込んでしまうのかもしれない。
今まで自分は、自分の限界なんてものを、だいぶ手前に線引きしていたのかもしれないな、なんてことを考えながら、はじめはさっぱりわからなかった走ることの意義のようなものを微かに感じ、文字でだけは見たことのあるランナーズハイとはきっとこのこと、少々の興奮と、まだまだ行けるというという根拠のない自信に、その感覚は研ぎ澄まされていく。
残り1キロを過ぎて最後のコーナーを曲がり、半蔵門を過ぎ残すは最後の長い直線。
「ラストスパート!」
彼女に声をかけられスピードを上げる。
新国際劇場の横あたりで彼女が覗き込むようにしてこちらを向いて微笑む、「あとちょっと!」
つられてさらにペースを上げる、膝を高く引き寄せ、地面を強く蹴り出す、残すは最後のなだらかな下り、風を切るとはまさにこのこと、ここを走り抜けた先に新しい自分が待っている、残る力を振り絞って全力で駆け抜けようとしたまさにその時、

ピキーーーーーーーン!!!!!!!


まだ当時付き合いたてだった妻と2人で観たオペラ座の怪人。その冒頭でヒステリックな悲鳴をあげながら殺されるクリスティーナの雄叫びよりももっと鋭く、左膝を始点に脳天のつむじの先まで、電気が走るよりもっと速く、強烈な悲鳴に似た音が身体の中を一気に突き抜けた。
数メーター先を走っていた彼女が後ろを振り向き、大丈夫ですかとこちらに駆け寄ってくるのが見える。どうやら反射的に左膝を爆発数秒前の時限爆弾のように慎重に抱えながら、その場にうずくまっていたらしい。
だめだ、ほんの少し動かすだけでも激痛が走る。
今まで感じたことのない痛みに動揺し、言葉だけでは大丈夫と強がってみたのはいいものの、何とか立ち上がろうと試みては、あえなくバランスを崩し、無残に倒れこむ始末。私は彼女の肩を借り、すぐに病院へ向かう以外に選択肢は残されていなかった。

ちょうど通りかかったタクシーを、彼女は映画のワンシーンのように両腕を上で交差させる派手なアクションで呼び止め、運転手は10メーター先の路肩にピタリと車を寄せた。
肩を借りながら後部座席にもたれかかり、行く先を告げるのに最初に思いついたのは、その日は財布に入れていた処方箋のことだった。
ここからそんなに遠くないはずだ、大きな病院だったからそこに行けば間違い無いだろう。財布を取り出し、処方箋と医師の名刺から病院の住所を見つけ、タクシーの運転手に行き先を告げた。ついでにあの恋愛科のヤブ医者に一言文句でも言ってやりたい気持ちも少なからずあった。
みるみる左膝は腫れ上がり、到着した頃には熱を持ち丸みを帯びて、化学記号の模型で見たことがあるような、昆虫図鑑の節足動物のページで見たことがあるような、とても自分の体の一部とは思えない形をしていた。
成り行きで同乗してくれている彼女の気遣いに、精一杯の強がりの苦笑いで返す他なく、おおよそ20分弱、ひたすら心を無にしながらの道のりを経て、タクシーは病院の搬送口へ辿り着いた。

搬送口で待ち受けていたのは、北沢と、髪の長いアシスタントであった。
「大丈夫ですか、お待ちしておりました。事情は承知しております。こちらへどうぞ。」
事情を知らせた記憶もないが、こちらの痛みはとにかくもう限界なのである。すぐさま患部を冷やすための氷嚢をあてがわれ、両脇をがっちり抱えられると、用意していた車椅子に乗せられ病院内の廊下を前へ前へと押し出されていく。長い廊下の突き当たり、特別処置室のランプが掲げられた部屋に通されると、赤い光が点灯し、その部屋に入れられるや否や、またもや両脇を抱えられ、SF漫画に出てきそうな白いカプセルの中に寝かされ閉じ込められた。
数分間匂いのしない霧状の何かを吸い込ませられると、不思議と少し痛みが和らぎ、そして同時に意識も遠のいていく。
と思った途端にカプセルが再び開いた時には、今度は手術台の上にいた。
部屋を移動させられたことにすら全く気づかぬまま、待ち構えていた整形外科医らしき人物に、水色の布をブワッとかけられる。
「ちょっとチクっとしますからね、我慢してください。」
朦朧とする意識の中で、冷やされ、運ばれ、切りつけられ、なんだか、マグロ専門店を取材をした時に見た、まな板の上のマグロの気持ちを追体験している気分になっていた。
ウィーン、ガチャ、ギュルルルル。
ウィーン、ガチャ、ガチャ、ギュルルルル。
麻酔が効いているのか、それ以降痛みは全く感じることなく、機械音が元々うっすら流れていたクラシック音楽の上でリズミカルに鳴り響いているのを遠く感じたのを最後に、次に気が付いた時には左膝がギプスで固定された状態で、北沢の診察室のソファーベッドの上で目が覚めた。
大事には至らず、安静にしておけばすぐに良くなる、ではまた明日、とだけ言われ、二本の松葉杖を手渡しで受け取ると、呑気な笑顔に何か言い返す気力も起きず、送り出されるがままに診察室を出た。

「私がもう5kmと言ったばかりにすみません。」
ここに運ばれてから一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
スポーツウェアで待合室に居る彼女は、あきらかにその場所に馴染まずに、ずっとここで目立っていたに違いない。
他の患者の視線に申し訳なさを感じながら、
「いやいや、日頃から不摂生をしていた自分が悪いから、気にしないで。」
とだけ言い訳して、近くを通り過ぎるベテラン患者の見様見真似で、松葉杖をつき、病院の地下にある車止めへ向かう。
彼女が歩幅をこちらに合わせながら歩く間の会話で、互いの家が同じ地区内であることがわかり、タクシーに同乗し、先に自分の家で降ろしてもらうことになった。
今朝はあんなにも青かったはずの空が、こんなにも赤く染まるものなんだなと、自分の膝も含めて、1日の変化を感じながら、夕焼けにぼやいているうちに家についていた。

「私に何かできることがあったら何でも言ってくださいね。」
と、彼女はそう言い残して去っていった。

松葉杖を一度傘立ての脇に置き、玄関で靴を脱ぐのも一苦労。
杖の先を玄関に置いてあった雑巾で拭き再び廊下を歩き出すと、さして広くもない、リビングまで数歩もないであろう廊下も今日ばかりはとても長く、遠く感じる。
何から何まで長い1日だったな、とりあえず喉が渇いていたので、キッチンまで移動し、冷蔵庫を開けると、ソフトドリンクの類はあいにく切らしており、特に止められたような記憶もなかったので、冷蔵庫の奥に唯一光り輝いていた黒い一番星のついたアルコール飲料を手にとってプシュっと音を立て、待ちきれずその場でぐいっと煽るように飲み込んだ。
はあ、どんな時だってビールは美味しい。
何かつまみになりそうなものがないか探そう、冷蔵庫を覗くと、どうやら冷蔵庫の方も腹をすかせているのかと思うほど空っぽに近い有様。仕方なく何かデリバリーでも頼むか、再びテーブルに腰掛け、タブレットで検索をしようと思ったまさにその時に、インターホンが鳴った。
なんとか立ち上がってリビングの通路側にあるディスプレイの下まで、杖をついて時間をかけてなんとかたどり着いた頃には、映像が切れてしまって、その相手方を確認することができなかった。
こんな時に誰だろう。
真っ先に過ったのは、出て行ってしまった妻のことだった。ただ、そうである理由は思いつかない。いつか頼んで忘れている宅配便でも届いたのかもしれない、いや、万が一、億が一、妻の気が変わっていることもあるのかもしれない。
淡い期待を胸に秘め、松葉杖の使い方も少しずつ要領を得ながら玄関の扉を開けると、先ほどの彼女がスーパーのビニール袋を抱えて立っていた。
「突然すみません、余計なお世話かと思ったのですが、もしかしたら食べ物でお困りかもしれないと思って。」
驚きと同時になるほどな、という二段階の自分のリアクションを経て、ちょうどデリバリーでも頼もうと思っていたことを正直に伝え、その何某をそのまま受け取るつもりで、手を差し出したところ、彼女は失礼しますと、すり抜けるように玄関を上がり、キッチンの洗い場の隣にそのビニール袋を置いた。
そして「しばらくお借りします。」と言ってから、ものの30分もしないうちに料理がダイニングテーブルを埋め尽くしていった。
自分はまだ書面の上では妻と別れていない。2人きりで女性を家にあげてもいいものかどうか、いや、両腕にあるビニール袋を持ったまま家に帰らせるのも、気の毒だ、ただ、何より自分は今まさに腹をすかせている真っ最中なのである。
心のどこかで誘いを断らないという、ポケットの中にある処方箋に罪を擦りつけながら、待て、としつけられた犬のように黙って、時折よだれをこぼさないように気をつけながら、テーブルに座ってそれをただ見つめていた。
「栄養管理も仕事のうちだったので。」と彼女は謙遜したが、
洒落た店のコース料理がいっぺんに出てきたように彩りも鮮やか、妻の作ってくれていた庶民的な、茶褐色多めな料理と同じ皿に盛ってあるとは到底思えなかった。

「覚えていますか?」
「実は無名選手だった頃の私をインタビューしてくださったのを私ずっと覚えていて。」
「このお仕事、お名前を見かけた時から、ご一緒できるのをとても楽しみにしていたんです。」
料理の大半を平らげ、グラスに注がれたビールもその品数に比例させながら勢いよく2缶3缶と空いたところで、藪から棒的に飛んできた質問に虚を突かれ、少しだけよく噛んでいるふりをしながら思考時間を長くとった。
スポーツウェアがクローゼットの片隅に追いやられていたのと同じ理屈で、記憶の片隅に追いやられていた遥か昔の取材のことを引っ張り出してみる。
言われてみればそうだあれは確か、スポーツ紙の担当をしている時に彼女によく似た女性に一度だけインタビューをしたことがあるかもしれない。
ただ、たった一度きり、紙面の片隅で。
当時の新体操の世界ではビジュアル実力共に、オリンピックでメダルを期待される1強の圧倒的な選手がいた。
そして見事本番でもメダルを獲得し、一躍国民的ヒーローとなった。
ただ、その時の代表選考会で予選落ちした選手の中で、その頃は化粧気もなく、素朴な印象を持っていた彼女に、私はどこか原石としての魅力を感じた。女王に蟻のように群がる群衆を尻目に、その選手の方に歩み寄り、労いの言葉をかけ、いくつかの簡単なインタビューのやりとりと、持っていたカメラで撮影をし、片隅の小さなものではあるが、記事にさせてもらったのを思い出した。

「私に何かできることがあったら何でも言ってくださいね。」

繰り返す彼女の言葉の、"何か"、"何でも"というのは一体どこから、どこまで、どのようなことを指すのだろうか。
次第に視界がグラグラと揺らぎ、これ以上飲んでしまうと、このまま寝てしまうかもしれない。はたまた良からぬ気など起こしてしまってはならないのである。
自分の脳みその、かろうじてまだアルコールに侵食されていない部分を探し、か細い理性と相談した結果、正直に、今の状況、処方箋のこと、誘いを断らないルールについて、誠意を込めて彼女に事情を説明するという判断に至った。
妻との結婚生活において、自分の失敗から学習したことは大きく2つ。ほうれんそう(報告・連絡・相談)、の大切さ、そして、嘘をつく場合には、最後の最後まで必ず突き通すこと、である。
嘘とゴキブリはよく似ている。ひとつ見つかると、たくさん見つかるところが。妻の持論である。1つ偽れば、それを隠すためにまたもう1つ嘘を重ね、気づいた頃にはそれらは幾重にも重なって、身動きが取れないまでになってしまう。
信頼関係というのは、築くのにはとても時間がかかるのに、壊れる時はほんの一瞬なのが本当にやっかいである。それゆえに尊いところもあるのだけれど。

順に、結婚している妻がいること、そして今別居中であること、自分が恋愛科に通院していること、そして医師からこんな処方箋を出されたということ。以上のことをこと細かに伝えると、
彼女は両腕を天井にググッと伸ばすような形で、準備運動さながらの肩周りのストレッチをして、緊張が解けたような仕草を見せた。どうやらこちらの事情は理解してもらえたようだ。密かに安堵し胸を撫で下ろす。
少しだけ安心したのもつかの間、彼女は自分の持っていたグラスをそっとテーブルに置いて、すっと立ち上がり、一枚羽織っていたカーディガンを椅子の背もたれにかけ、そのスタイルの良さを際立たせ、私の隣までゆっくりと歩み寄り、少し屈んで、目線を同じ高さまで下げた。

「じゃあ、抱きしめてもらえませんか?」

微笑むのとは少し違う、彼女の真剣な、それでいて少し照れたような淡い表情に、心臓の鼓動がいつもよりも大きく、それでいて速くなるのが自分でもわかった。髪の匂いなのか香水の匂いなのか、顔まわりから漂う女性の匂いはなぜこんなにもいい匂いがするものなのか、鼻腔の奥まで刺激して、脳内のお花畑が咲き乱れて止まらない。
慌てた私は持っていたグラスを床に落下させ、中身が自分の履いていたパンツの裾と床を汚し、グラスは部屋の四方八方にバラバラに飛び散っていった。
「そのまま動かないでください。」
彼女はすぐにキッチンに置いてあったタオルを探して戻り、グラスのかけらを貝殻のように拾い集め、床を拭きながら、少しずつこちらの方向へ向かっていた。このままのルートを辿る一直線上にと私のパンツまでも、拭こうと試みるに違いない。
いや、自分で片付けるので、と口にするも、どうにも自分の足は思い通りに動かない、立ちあがろうと試みるも、お酒の効果も相まってよろけてしまった。
「そのまま動かないでください。」
徐々に迫りくる彼女が、とうとう自分の足下までたどり着き、濡れた目でこちらを見上げている。太もものあたりに違和感を感じてポケットに手を当てると、処方箋の存在を思い出した。来るもの拒まず。人の誘いを断らない。直線上に2つの視線を感じながら、なるほど、この場合はルール上どうなる、もはやショート寸前の思考回路。
ここまで来たらあとはなるようにな・・・。

ジリリリリリリリ!

その時、ちょうどアラームが部屋に鳴り響いた。
YESとしか言えない、誘いを断らない一週間がここに終了したのである。

「ごめん、帰ってくれないかな。」

頭の中で一行、医師の言葉が蘇り、
両手を膝につきながら思い切り頭を縦に振った。
リビングに飾ってある写真の中のウェディングドレス姿で微笑む妻が、全てお見通しとばかりに、こちらを見つめている。
観念したのか、興ざめしたのか、自尊心を傷つけられたのか、急に大人しくなった彼女を玄関まで送り出し、割れたグラスの残りをなんとか一本足で拾い集めながら、今日何本目かわからないビールを持っていつも通りベッドの脇に腰掛けた。
明日の朝、目が覚めたら、最初に妻に連絡しよう。
新たな決意の門出に、自分自身の背中を押すように、最後の一口を飲み干してから、部屋の電気を消した。

愛は飾りモノでなく、壊れモノなんです。


翌日、左足を多少引きずりながらも北沢のもとを訪れた患者は、
その痛々しい足元には似合わない、晴れやかな表情で扉をあけた。

大事にそっと、取り扱いに注意です。


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『愛は飾りモノでなくて』   金井政人

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