M's Story ① 幼少期〜藝大
公式サイトに掲載しておりました記事を、noteに移行し掲載していくことにしました。1人の声楽家の今に至るまでのことを綴っています。
Masato’s Story ① 幼少期〜藝大
1979年6月29日、山形県新庄市に生まれる
幼少期
幼少期は父が教えていた道場で剣道を習い、セントラルスポーツで水泳を。並行してそれぞれ6年ほど取り組む。水泳は特に熱中し、実力が飛び抜けていたわけではなかったものの、市の大会でバラフライ50m1位などの成績を残す。
幼稚園の時はヤマハのエレクトーンも習ったが、「男の子のするものじゃない」と言い1年経たずして辞めたとのこと。本人はあまり覚えていない。
中学
中学に入学し、水泳部を希望したかったが、学校にプールがなく、入部条件が特殊であったため断念。先輩に誘われ陸上部に入部した。
陸上部では110mハードルと砲丸を取り組んだ。
そして、スポーツとはまた違った出会いもあった。
それが音楽。元々変声期が早く、小学校高学年の時には低い声に。音楽の授業で低い声で目立つのが嫌で、か細い裏声で誤魔化し歌っていた。中学になり周りも変声期を迎え、音楽の授業でも地声で歌い出した時に、音楽のおばちゃん先生の一声があった。「井上!お前良い声だな!」と。元々小学校の時はコンプレックスを持っていた声。まさか褒められるとは思わず、そこから歌うことも少しずつ、好きになっていった。クラシック音楽に興味を持ち始めたのもこの頃から。
ピアノを習い始め、その先生の紹介で声楽の先生にも習い出した。学校以外は陸上、ピアノ、声楽、という生活。
そして中学2年の時に母から誘いを受けたのが、山形県民合唱の「第九」。合唱に最年少で参加する。
その時のソリスト – 大倉由紀恵さん、齊藤雅子さん、市原多朗さん、福島明也さん – の声に感銘を受け、自分もこんな歌を歌えるようになりたい。と強く思うように。
山形に音楽科のある高校があると知り、受けたいと思うものの、父は猛反対。元々両親ともに地方公務員で、音楽一家ではなかった。自分が同じ立場であっても同じように思ったかもしれない。
それでも進みたいと思い、県のジュニア音楽コンクールを受ける。高校生たちの中に中学生が1人。なんとか努力賞を貰い、ようやく「じゃあ、できるところまでやってみろ」と許可をもらう。
実は第九の合唱だけでなく、もう一つ、自身の想いに大きく関わった事があった。それは友人の死。
中学1年の1月。小学校の同級生だった児玉有平君がいじめにより殺された。新聞で知った。当時あまりに衝撃的な事件で、ニュースにもなった。
中学は別々の学校に進み、それ以来会っていなかった。彼は、小学生の時に、「将来、手塚治虫のような、皆に夢を与えられる漫画を描きたいんだ!」とはっきりと夢を語っていた。”もうそんなしっかり夢を持ててるなんて、すごいなあ”と心の中で思っていた。それが殺されてしまうなんて。しばらくショックは消えなかった。
勝手に、有平くんのように何か夢に向かって頑張れたら、と思っていたところに、ちょうど出会っていたのが音楽だった。
彼が背中を押してくれたような気もした。
高校
そして山形北高の音楽科に進学。音楽三昧の日々を過ごす。
実家からは遠かったので家を出て、学校近くに下宿。
開門と同時に登校し練習室で練習。昼休みも練習。放課後も練習。
学校では一般教科のほか、声楽のレッスン、ピアノのレッスン、音楽理論、オーケストラ(ここではコントラバスを担当した)、などの専門の授業も受ける。定期演奏会では独唱に選出される。
そして、大学受験。この学校からは、10年ほど藝大には合格者が出ていなかった。もちろんレベルの問題もあったかもしれないが、「藝大なんて受けても無理」という空気もあったかもしれない。
しかし、受けるなら藝大、と浪人覚悟で受験。なんと山北からは3名が合格した(1浪の先輩のバス、自分、そして同期のホルン)。受験時に、高校の声楽の先生に紹介していただき習い出していた平野忠彦先生には、「合格が目標じゃダメだ。入ってから、そして藝大を卒業してからどうなりたいかを考えろ」と言われていたので、合格した時は割と冷静だった。
大学
晴れて東京藝大の学生として、東京での生活がスタートした。
山形時代はあだ名はずっと「マット」「マット君」だったが、東京に移ってからは基本「井上君」「雅人君」が多かった。自分のことを慕ってくれた後輩たちは何人か「雅兄(まさにい)」と呼んでくれる人もいた。
藝大生活は、仲間たちと切磋琢磨し、彼女も出来、恵まれ充実していたと同時に、葛藤の時でもあった。
自分の代は現役生の多い年だった。それぞれに個性的。まあ藝大生なんてそんなものではあるが。上野動物園の近く、というかほとんど動物園である。学部生のうちから外部での演奏の仕事もいただけて(師匠が外での演奏もどんどんやれと背中を押してくださっていたからこそだが)。学部2年生の時には、故郷で「第九」のバリトン独唱もさせていただいた。
順調に見えるかのようだが、内心は葛藤の連続だった。
決して成績が悪いというわけではない。だが、自分のやりたいことができない。イメージする声が出ない。
もちろん満足したらそこでおしまいではあるが、どこをどうすれば良いのか、悩む日々だった。
そんな中でも師匠はある日は「全然ダメじゃないか!」と檄を飛ばし、またある日は「そうだ!!!それでいいんだ!」と全力で認めてくれた。
「何があっても俺が盾になって守ってやるから、お前はやりたいことをやれ!」
数年前に急逝された。豪快で厳しくて、それ以上に優しい師匠だった。今ではなかなかいないタイプの師匠だった。お世話になった素晴らしい先生は数多くいるが、「師」いう感覚なのは平野先生だけ。
藝大生(実技系の学科)はほとんどにおいて「就活」というものをしない。それは演奏家として、アーティストとして活動している人たちの集まりだからでもあると思うが、特殊な世界。だが現実は甘くはなく、そういう思いで集まった声楽科1学年60名のうち、今現在、実際現場で会ったり活躍を耳にするのは1割程度。
当時の自分もまた、演奏家を目指し取り組んで行った。
大学院
そして大学院に合格し進学。その時にもう一つ変化があった。
それまでは、ドイツ歌曲をメインに取り組んでいた。大学院も、ソロ科(歌曲や宗教曲などを研究する科)に進み神話ものをテーマとした歌曲などをテーマに取り組むつもりでいた。しかしそのタイミングで、師匠がオペラ科の主任となり、自分も師匠からの意見もあり、相談しオペラ科の方に進むことにした。
それが今の演奏活動にも大きく影響することとなった。
オペラ。平野先生の門下は、イベントが多く、合宿、独唱発表会、重唱発表会など。重唱発表会は、オペラ作品の抜粋公演を、学部1年生から大学院生まで総出で作り上げる。リハーサルでは師匠の雷が落ちることも常。
オペラ自体好きだったが、院ではなんとなく、神話ものを題材とした歌曲に取り組んでみたい、という考えもあったためにソロ科のつもりでいたが、先にあげた通り、オペラ科に進むこととなった。
オペラ科は忙しい。1年次はオペラのハイライト公演を数度行なう。「秘密の結婚」のロビンソン伯爵。演出はウルトラマンなどの監督も務められた故・実相寺先生。学部時代にも藝祭の公演でお世話になっていたこともあり、「君は動けるからもっとやって良いよ」など、優しい言葉をかけてもらったのを今でも覚えている。そして2年生のオペラ定期公演の裏方の手伝いがある。これは大変だと愚痴をこぼしていた人もいたが、多くの裏方の仕事によって公演が支えられている事を身をもって知る事ができた。
そして2年次は自分達のオペラ定期公演が。演目はモーツァルトの『フィガロの結婚』。
自分は表題役のフィガロを務めることに。この時の藝大は非常に恵まれていて、外国人コーチが数多く在籍していた。
ウバルド・ガルディーニ先生、スティーブン・ローチ先生、マルチェッラ・レアーレ先生、ジャンニ・クリスチャック先生、ハンス=マルティン・シュナイト先生、ジャンニコラ・ピリウッチ先生、など。今では考えられないほどに豪華で、恵まれた環境だった。この時の学んだ経験が、非常に今の活動に繋がっていると強く感じている。
当時のオペラ科では、オペラ公演の負担が多いことと、論文と修士演奏が必須(論文は徐々に選択制になっていっている模様)であったため、3年在籍することが比較的主流であった。
3年次もオペラ公演『コジ・ファン・トゥッテ』にグリエルモ役で賛助出演することとなったが、論文も演奏もやりたいものが決まっていたので、準備は早めにスタートした。
修士演奏・論文で取り上げた題材は原嘉籌子作曲オペラ『さんせう大夫』。師匠が初演でタイトルロールを務め、門下生の勉強会では僕が大夫を一部歌った作品であもある。
修士演奏は基本ピアノ伴奏で、指揮、演出、助演の方が入り、オペラの数場面を上演するのだが、この作品は邦楽器も入る編成のためピアノでやるのはなかなか難しいところもあり、大変ではあったが自分でオーケストラを集めて行なうことにした。その準備もあるため、論文は初休み前にはある程度形を仕上げた。論文作成にあたり作曲の原先生のとこにも伺い、修士演奏もお越しくださった。演奏も論文も、口頭試問も無事終えて、修了となった。
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