2003年の文学フリマが青山ブックセンターで開かれていた際、会場を後にしようとしていた福田和也と偶然にすれ違うことがあった。軽く会釈した私に対し、実ににこやかな表情で応じてくれた。当時、彼は柄谷行人の後継者とさえ名指しされた売れっ子であり、私を認識していたかどうかさえ極めて怪しいのだが、訃報が流れたとき私はまず、20年以上も前に一瞬だけ交わしたあの挨拶のことを想起していた。 少なくとも私にとって福田和也とは、何よりも『日本の家郷』(1993年)の著者であり、さらに言うならば
吉本隆明は「蕪村詩のイデオロギイ」(一九五五年)にこう書いた。 日本のコトバの論理化は、日本の社会構造の論理化なしには不可能である。 この命題は不可逆である、と山城むつみは主張する。すなわち、「日本の社会構造の論理化は、日本のコトバの論理化なしには不可能である」という逆命題は成り立たない、と(「詩の『場所』をめぐって」 一九九九年)。 一九五〇年代の吉本隆明においては、「論理化」の道筋は確かにこの順序でしか解決され得ない課題であったかも知れない。 ところで、「一九五〇
かつて柄谷行人は「近代文学」についてこう記していた。 「神は死んだ」といったニーチェは、文学芸術は永遠だと信じていた。つまり、彼にとって、近代文学という神は死んでいなかったのだ。それが死んだらどうなるか。われわれが目撃しつつあるのは、まさにそのような世界である。 (「読売新聞」2006年12月13日付) だが「死んだらどうなるか」を考えることには、あまり意味がない。なぜなら、「近代文学」は正確にはまだ一度も生まれきってはいないからである。
アインシュタインが導き出した E=mc² やオイラーの公式は「美しい」と言われる。 「数的に簡潔な秩序」(村上陽一郎)は、なぜ「美しい」と形容されるのか。 あるいは、数的な簡潔性に理論の「正しさ」を重ね合わせてしまう「信仰」はどこからやってくるのか。 2024.5.17
「漢字による日本語の文字化は奈良時代から現代までずっと行なわれている」と今野真二は述べている(「日本語と漢字」 岩波新書、2024年)。 また今野は同書で、稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した鉄剣の銘文を基に、「漢字が日本語の文字化に使われた始まり」として「西暦四七一年」を措定する。 日本語を「文字化」するとは、どういう手続きか。あるいは、「文字化」される以前の「日本語」について考えるとは、どのような「ことば」を想定することになるのか。 2024.5.5
素粒子理論は重力の量子化に現時点で成功していない。 重力のみが、量子化、すなわち、場の量子論での定式化を待つ段階に、私たちの物理学はあるのです。 (橋本幸士「量子重力理論の構築に向けて」 「数理科学」2024年1月) 力の統一はなぜ、「場の量子論」という言葉、すなわち「数学的フレームワーク」(橋本)において、なされなければならないのか。 あるいは、重力とは、本当に他の3つの力(電磁気力・強い力・弱い力)と同列に扱うことのできる「力」なのか。 2024.1.18
「街と、その不確かな壁」(「文學界」1980年9月)は、小説と呼ぶにはやや生硬な、「ことば」に向けての短い考察をもって書き始められている。 お客さん、列車が来ましたよ! そして次の瞬間、ことばは死んでいる。(p.46) 最初の「お」を叫びだすとき、「お」を生む時間はいまだ、「よ!」が鳴る時間を知らない。一方、「よ!」で終わろうとする時間は、「お」から発話を進めていこうとしていた時間とは、おのずから別の時間として流れざるをえない。私たちは「お」と「よ!」を同じ時間軸の上で聞
批評家・若松英輔はマラルメ「詩の危機」を援用しながら、こんなふうに述べている。 言葉を記号だと思っているあいだは練磨することはできない。だが、言葉の本質が、不可視な意味であることを実感すれば、練磨せずに言葉を用いることの方がかえって怖くなる。(「言葉のちから」 日本経済新聞12月16日付) 「記号」と「意味」との関係性を基礎から更新してしまったマラルメのような表現者に対して、「不可視な意味」とは、いったいその作品群の何を言いあてていることになるのか。 あの壮麗な筑摩書房
モンテーニュは書いている。 おまえの愛しい兄弟を不幸な弾丸で倒したのはおまえがかきむしっている金髪でもなく、口惜しさに激しく叩いているおまえの白い胸でもないぞ。もっと別のものにくってかかれ。 (『エセー』第一巻第四章 原二郎・訳) たとえば、ひとりの批評家志願者が若い私憤から自らの言葉を出発させようとするならば、志願者はただ自らの言葉によってのみ、私憤の「私憤」性を完膚なきまでに突き詰め、私憤に唯一無二の抽象をもたらさねばならない。 「偽りの目標」(モンテーニュ)がち
2023年のノーベル文学賞はノルウェーの劇作家ヨン・フォッセに決まった。 翻訳家・鴻巣友季子は「本命中の本命」としたうえで、男女比の不均衡について触れ、「女性が続く年があってもよいのにと、どうしても思ってしまいます」と述べている(朝日新聞10月8日付朝刊文化面)。 昨年のアニー・エルノーに続き、今年のノーベル文学賞が女性に与えられると発表されていたら、これから何がどのように変化していくのか。 あるいは,、文学賞受賞者の男女比を考察するとは、具体的には文学という古来のジャ
小林秀雄は、井伏鱒二の「貸間あり」を評してこう述べていた。 この作は、勿論、実世間をモデルとして描かれたのだが、作者の密室で文が整えられ、作の形が完了すると、このモデルとの関係が、言わば逆の相を呈する。 (昭和三十四年) 小林は小説が小説と呼ばれ得るに到る契機にかんして、まことに初歩的な原則を再確認しているに過ぎない。 いま、「小説」として流通する諸作品において、「実世間の在るがままの姿」は「モデル」としての役割を誠実に心得て
河林満の「渇水」が6月に映画化されることになり、それにあわせて小説もようやく文庫化された。この文庫版に付した「解説」で佐久間文子はこう書いている。 「古風」と言われた河林の小説をいま読むと、今日的なテーマだと感じら れることにおどろく。貧困が社会問題化し、見過ごせない段階まで来てい ることも大きい。 はたして「渇水」という小説は「狂乱経済」のさなかに三十年後を予見していたがゆえに再発見に値すると見なされたのか。 あるいは、小説がある世相や思潮を映してい
【蛇足】 ①『広辞苑』第七版によれば、「あっても益のない余計な物事。あっても無駄になるもの」。 ②本来、読者にゆだねられているはずの行間について、「新たな解釈」を先回りして埋め込み、その埋め込みまでを本文として回収してしまうこと。 ③たとえば、漱石の『こころ』を翻案・映像化するにあたり、「先生」の妻(お嬢さん)あるいはその母親(奥さん)の、Kに対する「悪意」についてほのめかすような回想をラストに挿入してしまうこと。 * ある時代にあった
歌人の鈴木加成太は、歌にはそれぞれに「天性の表記」があるとして、新旧のかなを自在に操った作品を提出してみせている(『うすがみの銀河』)。 かつてアインシュタインが選択したテンソル形式は重力場にとって「天性の表記」だったのだろうか。 あるいは、自然界を「表記」するとは結局のところ何を行っていることになるのか。 2023.3.5
かつて柄谷行人は、「交換様式」について最初に考えたのは「探究Ⅲ」を連載していたときだった、と述べたことがある(「文學界」2019年12月号)。 「探究Ⅲ」は「群像」1993年新年号から(隔月で)掲載され、96年9月号をもって中断した。このなかで彼は、「たえずわれわれを触発するものでありながら、今日の言説においてけっしてとらえられていないもの」(第四回)として、カントが提示した「物自体」の位相を多重的に追い詰めていった。 この「物自体」が、近著に到って「霊的な力」と言い換え
指揮者によるスコアの解釈、あるいはそれとともにある奏者による表現を「翻訳」と呼ばないのはなぜか。 スコアと外国語原典との違いがあるとすれば、それはどの部分か。 2022.12.28