「1人見校正」の流儀について。

【注:この記事は、アメブロへ2023年12月10日に投稿した記事を、筆者本人が内容を変えずに移植したものです。】

こんにちは。

子供たちが先週インフルにかかっていたためか、なんだか私も喉が痛いのですが、体調がよくない時のほうが文章が書きたくなる不思議。というわけで、たまには仕事の話をば。

タイトルにもあるように、1人見校正の時の技術についてです。1人見でないときにも応用できることなので、けっこう重要なトピックだと私は思います。

先に「そもそも論」から。
校正・校閲(以下、この2つを統一しません)というのは本来、2人以上で行うべきものです。これは以前にも触れた話なので詳しくは繰り返しませんが、校正というものは複数の目を経ることではじめて、「形」となるものだと思っています。
しかし、出版業界の現状をみると(というか、昔からかもしれませんが)、編集者が何人か読んでいるとしても、純粋な「校閲者」としては1人見の状態のまま、書籍が世に出ることは珍しいことではありません。会社によっては、初校と再校で別の校閲者が1人ずつ見る、ということもあったりするようですが、それならまだ良いと思います。
雑誌においても、部数の少ない小説誌等では、昔から校閲は初校1人再校1人というパターンが聞いた話によると結構あるようです。
再校1人というのはどういうことかというと、その人が誤植を見逃したら基本的にはそのまま印刷されるということですし、再校というのは通常の場合、素読みだけでなく初校の赤字の確認という作業も含まれるわけですから、その赤字確認のミスというのもそのまま世に出てしまいます。

とはいえ、複数名で校閲している「はず」の週刊誌の校閲でも、実質1人見に近いような場面というのはありえるし、理想論としては、むしろ1人見でも最低限問題ないくらいのレベルで校閲したほうがいい場面というのはかなり多いです(現場では、1人見になってしまうことを防ぐ色々な仕組みがあるわけですが)。
というのも、2人目、3人目はそこまでそのゲラに時間を使っていられない(ましてや、細かい調べなど無理)という問題があり、実質1人目の人のクオリティに出来上がりが大きく左右されることが結構あるのですね。
これは週刊誌ですらそうなのですから、書籍や他の媒体においてはもっとありえます。というか、某新潮社の書籍校閲でも、再校までは社内社外あわせて2人ずつですが、念校とよばれる「校了前の最終確認」のときは基本的に社内の1人見です。つまり再校と念校の間に大量の赤字が入っても、基本的には1人での確認となります。2人目をつける場合もありますが、これも先ほどの話と一緒で2人目に頼り切ってはいけないわけで、1人目でほぼ完璧な状態にすることが理想になるわけです。出版業はビジネスなので、そんな何人もお金と労力を使って確認していられない。

…と、ながながと「1人見」そのものをとりまく環境?について書いてまいりましたが、私が言いたいのは、複数名の現場だとしても1人見に慣れなければならない、ということです。(あ、ごめんなさい。自分の実際のスキルは棚に上げて書いてます。。。あくまで理想論ね)

では、1人見の現場・実質1人見の状況では何に気をつけなければならないのか。
私が最も大事と考えているのは、「自分の中に仮想の2人目、3人目をつくる」ことです。
何を言ってるのかわからないと思いますが、もう少し簡単に言うと「2周(もしくは3周)読む、もしくは1周目で2人分読む」ということです。
この技術、というか流儀は、訓練しないと身につかないことだと思っています。

例として、「ネットニュースの芸能記事を、時間がない中で1人見で校正すること」をここでは想定します。
まず「自分の中の1人目」は、調べ物を中心に進めます。つまりは調べないとわからないこと、例えば芸能人の人名や年齢、イベントや番組の名前などを、正確を期しながら(ややスピードを落としながら)確認します。もちろん単純な誤植や表現の重複、叙述なども確認します。これでまず1周目。
次に「自分の中の2人目」が、記事を最初から読み返します。ここでは、単純誤植系に重点を置いて一字一句、ゲラの文字を咀嚼していきます。と同時に、もう少し読者目線に切り替えて、接続詞や用字、もしくは説明(この説明だけで多くの人が理解できるかどうか)などリーダビリティを重視します。また差別表現がないかの確認も重要です。

そして、時間があれば同じように「自分の中の3人目」がまた記事を最初から読みます。ここではもう「読む」ことに重きを置きまくって、このまま世に出ても問題ないかどうかのチェックをします。もちろんこの3人目で「しました」が「しまいた」になってるなどの単純なミスが見つかることもあり、結構ヒヤッとします。また根本的な瑕疵に3周目で気づくこともあったり(と、自分自身がいかに信用できないかということを再認識する時間にもなります)。時間さえあれば、お菓子を食べながら、ご飯を食べながらでもゲラを「味わう」というのも良いと私は思ってます(だから私は、忙しい日には会社の食堂でゲラを読んだりもするのですが、それはあくまで「仮想3人目」の工程です。1人目が食堂、は無理です)。

そこまでの時間がなければ、私は「仮想1人目」の段階で、頭と手だけでなく「口」も使ったりします。これも前に書いたかもしれませんが、口を少し動かして、音声としても読むことで、誤植発見に絶大な効果があります。これが先ほど書いた「1人目で2人分読む」です。テレワークの場合、私はガンガン声に出してます。しかし会社の部屋の中であからさまに声を出して読むことはできないので、会社では口をもごもご動かすだけだったりします(マスクをしているとなおよし)。以前、新聞社の校閲の方に聞いたら、新聞校閲でもこれを実践している人は意外と多いと言っていました。

以上のようにして、「限られた時間の中で」「1人で」しっかり誤植を見つけ出すことを目指す、という流れです。
大事なのは「仮想1人目の調べ物に集中する」こと。ここで例えば人名や年齢、番組名の間違いをスルーしてしまうと、仮想2人目や3人目も「これで合ってる」と思いがちになってしまうので、ここはグッと、固い岩に楔を打ち込むような気持ちで、歯を少し食いしばるくらいのつもりで、誤記がないかしっかり調べるのです。一文字一文字、ガリガリっと噛み砕いていく感じです。よく「鉛筆の点の跡」が残っている校閲ゲラとかあったりしますが、これはまさにこの作業をしているからなんですよね。
(時間が限られている中での作業なので、ここでは調べ物の「深度」も重要になってくるのですが、そのことはまた次の機会に書きます)

あ、一応ここでまた注記しておきますが、あくまで理想論ですよ。私が完璧にできてるわけではないので…(こんなエクスキューズをいちいちしないとならないのも面倒ですが)

こうして出来上がった校閲ゲラを見ると、その後の段階を経る前から私は軽く達成感を覚えたりします。
これくらいのメリハリは校閲の仕事に必要だと思います。

それから、「自分の中に仮想の2人目、3人目をつくる」という意味では、最初からゲラを読み返すたびに人格を少し変えるという「妄想」も効果的だと思っています。たとえば、次は少しめんどくさいほど細かい人のつもりで読むとか。まあここまではやらなくてもいいと思いますが、「妄想」というか「想像力」、「イメージ」というのも校閲の仕事には大切な気がしています。

ここでは芸能記事を想定しましたが、純文学小説でもノンフィクションでも学術書でも、スピードや深度はそれぞれ時と場合により異なるにしろ、校正・校閲の流儀としてはまったく同じベクトルにあるものだと私は思います。

またこれらのことは、他の校閲者が1人目で校閲したゲラを2人目として素読みする場合にも一緒でして、素読みって一字一句追うだけだと意外と気づかないことも多く、木を見て森を、のように、一字一句素読みを1周したあとに全体を斜め読みしてみると「あれ?」ということに気づいたりするから、本当に不思議なんですよね。
だからこそ逆の立場からすると、他の校閲者の人に拾ってもらった根本的な誤植ほど、ありがたいものはないです。本当に。
先ほども少し書きましたが、校閲者は「いかに自分自身の目と頭が信用できないか」ということを忘れずに、仕事をしなければならないと私は考えています。

…ワーッと書き連ねていきましたが、校正者も意外と(無意識のうちにでも)いろんな技術、流儀を使って校正・校閲してるのだよと、少しでもわかっていただければ。

ではまた!

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