父の帰宅 28
キョウカ先生が打ち出されたレジュメにざっと目を通し、カウンセリングが開始された。
「こっちの〇歳~五歳の家庭環境の描写のレジュメは長いのであとで読んでもらっていいです」
「そうだね、私も目を通すし、橋本先生にも渡しておくね、今日はこの前橋本先生に渡してたレジュメ、目を通したんだけどそのことから始めていいかな」
「はい」
「小さな頃からご両親の仲は悪くて子どもの湯浅君としてはだいぶ辛い思いをしてるよね」
「そうですね」
「この手首を切るイメージを中学生くらいから持つようになったんだね。それで実際にリストカットはしていない?」
「はい」
「それはここに書いてあるように、いつでも死ねるから、今はとりあえず頑張ろうってこと?」
「はい、強いうつ状態に入ったらイメージだけじゃなくて実際にカッターに握り締めて長時間悩むこともありました」
「でも切らなかったのはなぜ?」
「結局死にたくなかったんだと思います。リストカット繰り返す人も生きるために手首をきるわけですよね。自分が辛いことを誰かに伝えるためだとか、どうしようもなくなった感情を一時的に鎮静化させるためだとか……」
「そういう面もあるかもしれないね」
「僕も誰かに自分が辛いことを伝えたかったです。でもなんかできなかったです、僕は中学一年のときに突然人格が変わったんですね。当時の担任にもずいぶん心配されましたし当時の僕を知ってる人間はみんな知ってます。それだけ分かりやすく変化しましたね」
「どういうふうに?」
「なんていうだろう、ポーズもあるかもしれないんですけど、もの凄く冷めてしまっていました。数人の人間を除いては周りの連中がバカに見えました。それでバカとは関わらないでおこうって。今思うとぞっとするほどすかしていて厄介な中学生だったと思います」
「なんでそう思うようになったの」
「ほかの中学生とやっぱり考えてることにギャップを感じていました。僕はどんどん自分の内面に入り込んでいって、自分でも手に負えなくなって、でも周りに連中は普通に誰が誰と付き合ったとかそんな感じだし」
「確かにそうだね、でも冷めているんだけど、行動はすごい前向きというか、ものごとには熱心に取り組んでるよね。勉強も野球もこんな精神状態で続けていたわけでしょ。何が湯浅君をそうさせていたの」
「先生『天空の城ラピュタ』見たことあります?」
「うん、テレビでだけど」
「僕は小学校三年のときだったと思うんですけど、六年生を送る会で体育館にみんな集まってラピュタを見たんです。そのあとなんかうまく説明できないんですけど凄い、ほんとに圧倒的な恍惚というか幸福感のようなものに包まれて……。それからごくたまになんですけど、学校の行き帰りに自転車こいでて空を見上げると、その感覚が訪れることがあって。今考えると日常は慢性的な抑うつ状態で、気まぐれに訪れるその恍惚というか幸福感に支えられていた気がします。僕はたぶん、すごく空が好きなんだと思います」
「うん、うん、そうか。あの雰囲気はいいよね」キョウカ先生はカルテに「天空の城ラピュタ」、「空」とさっと書き留めた。
「まだこれから具体的なことは話し合いながら決めていかないといけないと思うけど、こういうなんていうんだろう、今話を聞いただけの判断だけど、すごく健全でキラキラしてて、湯浅君にとって幸せな感覚だから、湯浅君の気持ちを安定させるための感覚として、何か役に立つかもしれないね、こういう具体的なイメージは」
「この感覚を意図的に再現できたらもっと普段から自分を元気にできるかもしれないなと思うんですけど、如何せん気まぐれで……」
「今後もうちょっと掘り下げていけたらいいね」先生はマグカップに入れた上品な香りのする紅茶を一口飲んで続けた。
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