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父の帰宅 40

「もう、家を出ることにしました。母親がリビングに居るのを意識しただけでパニック発作を起こしています。そうなると反射的にデパス五錠くらい飲んでしまったりしています」

「そうですね、せめて二、三錠に止めておいてもらいたいですね、家を出る先は決まりましたか」

「はい、ありがたいことに友人が力を貸してくれて、なんとかなりそうです」

「そうですか、でもね、友だちに恵まれていることもありますが、湯浅君の生命力の強さがここまで自分を押し上げているんですよ。例えば、僕は専門じゃないからはっきりしたデータは知りませんが、例えば同じ症状の肺がん患者が一〇〇人いて、八〇人は死んで、なぜか二〇人は生き残る。この二〇人に関しては医学では説明できないんですね。湯浅君についても同じことがいえます。これだけの家庭環境で育ってここまでものごとを前向きに考えられるのは、心理学では説明できません。心理学の領域を超えています。このレジュメ、よく書いてくれましたね。湯浅君がどういう家庭環境で育ったか手に取るように分かりました。これは、私は精神科医だから分かりますが、死ぬより辛いことですね、これだけのことを書き上げることは」

「はい」マサは俯いたまま返事にならない返事をした。涙が床にこぼれ落ちていた。

「湯浅君がどこにトラウマを抱えていて、それに対して、不安定になったり、泣いたり、人間として真っ当な感情が出てきました。これは非常に大事なことです。医学的に厳密に湯浅君の症状とPTSDの症状を照合していませんが複雑性PTSDの一種であることは間違いないでしょう。近いうちににEMDRしましょう。湯浅君は今回の引越しに関してもそうですが、なるべく誰も傷つかない方法をとっていますね。湯浅君にはものごとを丸く治める力があると思います。トラウマを抱えた人間はときに強い攻撃性を見せることがあります。しかし湯浅君はそうではない。これもEMDRをする上で大事なことです。湯浅君のような方なら、必ず効果があると思いますよ」

「よろしくお願いします、……あとひとつだけお願いがあります」

「なんですか」

「母親に置手紙を書きます。その中でこのクリニックに来るように書いています。それは母親自身に回復を促すためでもありますが、母親はあまりにも僕の自尊心を傷つけ過ぎました。僕がどういう精神状況でここまでやってきたか、僕がどれほど苦しみながら回復に努めているか、先生の言葉で伝えていただけないでしょうか。じゃないと、僕の自尊心はぐしゃぐしゃにされたままで、耐えられません」

「分かりました」

診察を終えて、クリニックの近くの処方箋薬局へ向かった。マサはこの薬局が大好きだった。いつも丁寧に薬の説明をしてくれて、いつもと薬の量が変わるとどうしたのかと心配してくれる。このときもデパスの量が増えていたので訊ねられた。

「これから勝負なんです、人生伸るか反るかの」

「そうですか、健闘を祈ってます」

***

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