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父の帰宅 38

「それで、今回はなんで私を呼び出したの」

「──うん、いろいろいい訳考えたんだけど、やっぱりリョウコへの気持ちがまだ残っているんだと思う」もう十分往生際は悪いことは痛感していたので、率直に話すことだけを心がけた。

「リョウコを顔を実際に見て、改めて実感。これは恋愛感情だと思う」

恋愛感情か──。リョウコは俺から視線を少し逸してそう呟いた。

「私もさ、湯浅君に会う前に会ったらどんな印象も持つか考えてたんだ。私にとって付き合ってた彼氏って、もう過去のもので、私なりのやり方で封印してるの。それは湯浅君も同じ。じゃないと色々面倒な人もいるし。それで、今日湯浅君と会ってみて、その、過去になった感覚は変わらなかった。無礼ないい草なのは分かってるんだけど、その辺を歩いてる無記名の人と同じなの。友だちでもないし、知り合いでもない」

分かっていたことだし、むしろ求めていたとおりの返答なのだが、受け入れるのにほんの少し、ささやかな時間を要した。

「『くろいうさぎとしろいうさぎ』憶えてる?」俺は切り替えが済んだので、話題を変えた。

「うん、いい絵本だよね。私児童文学勉強してたし」

「そうなんだ、リョウコからもらったものは全部捨てたんだけど、あの絵本だけはまだ取ってる。元々姉ちゃんに読んでもらってた本っていうのもあるんだけど、なんか、あれだけは捨てられなかった」

「私は湯浅君がくれた手紙とかまだ持ってるよ。今読んだらだいぶしんどいと思うけど」

「それはしんどいな」

「なんかね、野球のボールもあったよ、勝利投手記念的なやつ」

「マジか。そういうことやりそうだけど」

「面白いよ」

「そういうものからまず封印してくれ」

この会話を終えて、アサコのことがあたまに思い浮かんでいた。もの凄く頼りにしてしまっているし、特別な存在だがリョウコに覚えているような恋愛感情といったものは今のところまったくない。でも、リョウコという女と完全に区切りを付けるのに、アサコの存在が、ぼんやりとだが心強かった。男は母親以外で自分を是認してくれる女をいつも希求しているのだと思う。ずいぶん身勝手な話だ。

「これからどうするの?」リョウコが訊いた。

「家を、出ていかなければならない」

「……ねばらないの?」

「うん、もうあの家には居られない。パソコンが壊れても、最寄りの電気屋には修理に出せないとこに行かなければ」

「そっか、じゃあこれが最後だね」

「うん、どっかでばったりっていう以外はもう会うことはないと思う」

待ち合わせをした駅の改札でリョウコと別れた。マサヤとリョウコを巻き込んでしまったことを改めて反省した。でもこのままでいるわけにはいかなかった。文字どおり何もかも変えるしかなかった。去っていく彼女を振り返るわけにはいかなかった。あたまにはジョニ・ミッチェルの歌う『リバー』が流れていた。感傷的な自分が気に食わなくて、必要以上に大股で歩き出しイギー・ポップの『パッセンジャー』を声に出して歌った。そうだ、ひとはみな流離うしかねーんだ。

***

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