境川養蚕信仰地等フィールドワーク①
踏査日:2024.3.27 - 3.28
・JR横浜線淵野辺駅
・新田稲荷神社内「呼ばわり山」
境内北側の「呼ばわり山」という小高い丘の上に今熊神社がある。
現在はビルやマンションなども建ち周囲に完全に埋もれた山だが、戦後あたりまでは桑畑が拡がる平地だったこの一帯で行方不明者が出た時、
鐘や太鼓をたたいて呼ぶと必ず見つかったという民間信仰の史跡だ。
2005年に相模原市内にある宇宙航空研究開発機構(JAXA)のプロジェクトマネージャー川口淳一郎教授が、当時行方不明だった小惑星探査機「初代はやぶさ」の発見を祈願してこの「呼ばわり山」に何度も立ち寄ったそうだ。
近くに高い建物はいくらでもあるにもかかわらずこの場所が選ばれ、
そして「呼ばわり」の方向が水平から垂直に更新され、
しかもそれが宇宙工学者から科学技術の結晶である小惑星探査機へのものだったという事実は、
ある種の日本人の心性が反映されているようで興味深い。
・皇武神社内「蚕守神大神石碑」
とぐろを巻いた蛇が御神体の蚕守神大神を境内の隅に祀っており、明治頃から始まった「おきぬさま信仰」の発祥の地でもある。
「おきぬさま信仰」は氏子の家の養蚕の繁忙期に手伝いに現れた神主の娘が、仕事が片付くと白蛇の姿に変わり神社の拝殿に消えてしまったという養蚕信仰民話のひとつ。
・箭幹(やがら)八幡宮内「蚕影神社」
側面に桑の葉の柄が彫り込んである。
この周辺の蚕影神社は境内の片隅にひっそりと鎮座している場合がとても多い。
・常盤日枝神社・持宝院境内「蚕影神社」
・御嶽神社境内「蚕影神社」
・中村不動尊内「馬鳴菩薩石碑」
天竺の高僧であった「馬鳴菩薩」は豊蚕信仰独自の仏教由来の蚕神で、
貧しい人々に衣服を施すという伝承から信仰が広まった。
たまたま養蚕業者に縁起の良いエピソードを持つ仏様がいたから信仰対象になったということだろうか。
仏像は顔面が一つ、腕が六本で養蚕関連の道具を持ち、白馬に乗る姿だ。
また同じく馬の蚕神という点で「馬と娘が婚姻して蚕に化身し人間に幸福をもたらす」という話は、
中国の東晋の歴史家である干宝の『捜神記』巻十四や、
柳田国男『遠野物語』「六九 神の始、家の神 - オシラサマ」など多くの伝承がある。
・米軍相模総合補給廠南北道路
・JR横浜線相模原駅
・JR横浜線矢部駅
・村富神社「龍神道祖神」「蚕影神社」
境内北の道路側に削石の龍神道祖神が鎮座している。
もともと相模野は「土地は高燥で地味はやせており、もとは水利の便も悪く、農耕を営むにも居住するにもきわめて工合のよくない土地柄」(※)
のため龍神講という農業神信仰が盛んであり、
雨乞いとして龍を祀っていた。
そんな土地柄もあってかこの道祖神は養蚕業に従事していた守屋今五郎によって大正時代に再建された。
一方、矢部の東隣りである淵野辺には竜像寺をはじめ室町時代初期の地頭・淵野辺義博に関する史跡がいくつもある。
淵野辺義博は暦応年間(1338〜1342)に竜像寺東の境川沿いにあったとされる「竜池」に住んでおり人畜に害を及ぼしていたという大蛇を退治したという伝説が残っている。
この大蛇退治の伝説は境川の護岸工事の隠喩だと推測できる。
おそらく池の名前にもあるとおりこの大蛇は嵐を呼び河川を氾濫させる龍のことであり、
「おきぬさま」のような蚕神の蛇とは別物と考えていいだろう。
境川近くの淵野辺では龍(大蛇)を退治する逸話が残り、
そこからわずか2km程離れた矢部では逆に雨乞いで龍を祀っていた。
これらから戦後〜高度成長期に郊外化する以前の相模野はずいぶん水に苦しめらた土地だったと推測できる。
(※) 座間美都治『相模原の史跡』P.30
【参考・引用】
◾︎ 伊藤智夫『ものと人間の文化史 68 - Ⅰ・絹 Ⅰ』(1992 法政大学出版局)
◾︎ 伊藤智夫『ものと人間の文化史 68 - Ⅱ・絹 Ⅱ』(1992 法政大学出版局)
▪︎ 座間美都治(著・発行)『相模原民話伝説集 改訂増補』(1978)
▪︎ 座間美都治(著・発行)『相模原の史跡』(1976)
▪︎ シルク民俗研究会 カイコローグ
「境川と蚕神(2)蚕影神社・オキヌサマ」
▪︎ タウンニュース さがみはら中央区版
「呼ばわり山 今熊神社 はやぶさ帰還『願掛けの地』」(2012年9月13日)
▪︎ つちのえ会(編集)『さがみはら 石仏夜話』(1978)
◾︎ 畑中章宏『蚕 ー絹糸を吐く虫と日本人』(2015 晶文社)
◾︎ 柳田国男『遠野物語』 「六九 神の始、家の神 - オシラサマ」(1910)
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