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いわゆる「ニュータイプ論」論

 ニュータイプ (Newtype) は、『ガンダムシリーズ』に登場する架空の概念である。新しい人類とされる人たちを指すが、もともとの概念が曖昧だったことに加え、作品が進むにつれて言葉の意味する事象が広がりすぎたため、はっきりとした定義は困難

 とは、ウィキペディアでのニュータイプの説明です。意外と、イイところを突いてます(笑)

 ニュータイプは、よくガノタが話題にするワードです。「最高のニュータイプはカミーユで、最強のニュータイプはジュドー」とか。最高があんなのなら、ニュータイプなんかなりたくないなぁ(笑)。

 ガンダムを観た人は、ニュータイプという可能性を、どこかで期待してしまう。ガノタが話題にする理由もそこにある。

 昨年11月、早稲田大学での富野監督の講演で、こんな質疑応答がありました。

Q、「ニュータイプは『我』を広げて、関係性を実現していけるのではないか?」
A、「かつてのニュータイプの規定は『個』の問題としては間違ってはいない。がそれが社会の中で生きていくのはどうなのか。とシャアを見て思う。説得、弁論は政治力だ。個人が成立するのは国家が必要なのだ、とエマニエル・トッドも言っている。社会、人の集まりの中で個人が生まれてきた。それは観念論として正しいと思う」(16年11月6日の講演内にて)

 この応えに対し、恐らく多くの人は、満足できていない。何故なら、もっとニュータイプという存在の持つ可能性を期待させるような応えを求めているから。

 事実、この質問の前、講演の中で監督はこう話されています。

「ニュータイプはSFチックなギミック。言葉だけのもの。サイキック・テレパシーがSFだった。けどそれが嫌だったから造語した。遠くを感知できるイメージ。世界を識れる自分、というイメージ。しかしそれは現実では不可能。ニュータイプを持ち出してしまったので逆にSFではなくなった。と、誘導された自分がいる」(同講演)

 この発言で、「ニュータイプ」という名称に対しての監督の率直な感想が述べられています。あくまで言葉だけなんだ、ロボットものをSFっぽく見せるために作ったんだけど、そのおかげでリアリティが失われてしまったし、自分も「誘導された」んだ、と。

 では、監督はなぜ「誘導された」のか。そして、質疑応答の中であった「かつてのニュータイプの規定」とはなんなのか

 そこを、少し歴史を紐解きながら探っていきたい、というのがこの文章の目的です。

 では、『機動戦士ガンダム』放送当時の監督の発言を『ガンダムの現場から(キネマ旬報社)』(以下『現場から』)『富野語録(ラポート)』(以下『語録』)から拾って見ていきます。

「彼等は決してスーパーヒーローじゃない。ごくありきたりの少年なんです。そういう彼等が戦いの中で、次第に自己をみつめ他人をみつめて成長していくという青春群像を描きたいのです」(『現場から』p50、初出79年4月)

 放送開始時期の監督の発言です。

 ストーリーの主旨について、放送前の企画書でも繰り返し語られているように、あくまでも「少年少女が戦いの中で成長していく物語」と強調されています。


 つまり、この段階で「ニュータイプ」というのはストーリーの添え物以外の何物でもなく、その点では監督の言う「SFチックなギミック」でしかなかった。

 しかし、その後#9「翔べ!ガンダム」にてマチルダの「あなたはエスパーかもしれない」という発言があり、画面でアムロのニュータイプとしての覚醒を描いていかなければならなる(#9放送は79年6月2日)。

 そして、ララァの登場以後、ニュータイプ同士の戦闘があのような形で画面に現れる。

 近年、監督はガンダムが打ち切りになったことを聞かれて「(打ち切りで)よかった。あれより先、ニュータイプ同士の戦闘は『エスパー同士の戦い』を描くことしかできなかった」と話している(2010年10月)。シャリア・ブルとの話について「描こうと思って描き切れなかった」という言葉も過去に残している(『語録』p56、初出80年2月)。

 そして、#30『小さな防衛線』#43『脱出』で示された、カツ・レツ・キッカのニュータイプとしての素質の顕現。

 元の企画では添え物であったニュータイプが、放映終了後、その「メッセージ」と共にひとり歩きしていきます。

 そもそも、放送中から監督自身も、自らの生み出してしまった「ニュータイプ」を何とか噛み砕こう、飲み込もうとしている様子が窺えます。

「エスパー論にやや近くなってきますが、何故エスパーという言葉を避けているかというのには、もう一つ大きな理由があります。それはニュータイプという考え方をエスパーという特異なものとしたくなかったという考えなんです。人類全体がニュータイプとして変わっていくことができるのではないか、という可能性を見せたいし、そうしないと我々みたいな凡俗は結局落ちこぼれて行くのかなって絶望的な思いにかられますので……」(『語録』P45、初出79年10月)

 しかし、同時にそれは手に負えないものだ、という諦めも垣間見える。

「男性と女性の愛をも包み込んだニュータイプの概念というのが『ガンダム』に於けるニュータイプです。では、それは何か?それは、『ガンダム』のフィルムやビデオを観た皆様が各々御考えいただければ良いのです。」(『現場から』p89、初出79年11月) 

 このように監督は、人類全体が変わっていく「可能性」を語りながら、それは描き切れない、見た人に任せます!と投げちゃっている(笑)

 しかし、それは「可能性」に魅せられたファンには届かなかった。映画化の流れの中で、ファンの眼差しは、「(もっと)ニュータイプのチカラを見せて!」となっていく。

 そして監督も、持ち前のサービス精神(笑)なのか、それとも自分の生み出した言葉に責任を取ろうとしたのか、考えを変容させていく。

「ニュータイプは人類そのもののルネッサンス、つまり再生だ」(『現場から』p102、初出80年5月)
「あるファンが、明確に解説してくれた。『ニュータイプとは、(己の)精神のすみずみまで、判る人のことなのですね』」(『現場から』p114、同)

 こういったムーブメントは「アニメ新世紀宣言」、そして映画版で修正されたギレンの演説にも反映されている。

「これは生きるということの問いかけのドラマだ。もし私たちがこの問いを受け止めようとするなら、深い期待をもって、自ら自己の精神世界(ニュータイプ)を求める他ないだろう」(『アニメ新世紀宣言』81年2月22日)
ギレン「かつて、ジオン・ダイクンは人類の革新は宇宙の民たる我々から始まると言った。しかしながら地球のモグラ共は、自分たちが人類の支配権を有すると増長し我々に抗戦する。諸君の父も、子も、その連邦の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!この悲しみも、怒りも、忘れてはならない!」(『ガンダムⅠ』)
セイラ「けど、この戦争で・・・いいえそれ以前から人の革新は始まっていると思えるわ」シャア「それが分かる人と分からぬ人がいるのだよ。だからオールドタイプは殲滅するのだ」(『ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』)

 70年代の超能力ブーム・「大予言」ブーム、そして「新人類」といった言葉が身近にあった81年当時、「精神世界」「人の革新」なんてフレーズは、受け入れられやすかったのかも知れません。

 かくして、まるでギレンのアジテーションを聞いたスペースノイドのように、ファンはニュータイプの可能性に熱く期待していくのですが、それは富野監督自身も同じだったように感じられます。

カーディアス・ビスト「宇宙に出た人類は、その広大な空間に適応するためにあらゆる潜在能力を開花させ、他者と誤解なく分かり合えるようになる。かつてジオン・ダイクンが提唱したニュータイプ論は、人の革新、無限の可能性……まさしく力を謳ったものだった」(『ガンダムUCepisode1』)。このように世間に流布してしまった、という点で示唆的ですらある。

 そして、その後、生み出してしまったニュータイプに的確なアンサーを示すため、監督は『Z』『ZZ』で再び、ニュータイプに取り組む。

 しかし、『Z』でニュータイプ研究所などの用語を使って示したニュータイプの姿は、「人の革新」とは程遠く、ナイーヴでヒステリック。遠隔地の人や、時にはすでに死んだ人間とも交流できるその姿は、避けてきたエスパーのようでもある(ニュータイプ研究所なんて言葉も、当時よくTVなどで取り上げられていた「旧ソ連の超能力研究所」とかに似ている)。

 監督は、それらのニュータイプについて、真のニュータイプではないがゆえに「まっとうな人格」ではない、と語っています(『語録』p133、初出85年8月)。それはファーストでニュータイプの素質を見せていたカツが、あんな死に方をしたことに、端的に表されているようです。

月刊ニュータイプの創刊は85年3月

 袋小路に陥ってしまったようなニュータイプ像。『逆シャア』ではニュータイプを語るというより、アムロとシャアの話を終わらせることに重きを置いていました。

 そして『F91』で、監督は三度ニュータイプに立ち向かうことになるのですが、ここで、ある興味深い発言を残しています。長いですが、引用します。

「(F91におけるニュータイプについて、今まで「戦争に便利な人間」という面ばかりが強調されているから)やっぱり最初の段階まで戻すことにしました。勘が良い少年くらいにしましょうね、ってことでやってはいます。でも今後はニュータイプ論を、もうちょっと違う方向で展開していきたいですね。僕自身の能力も含めて、絶対にやれるとはいえないけど、本当のニュータイプ論みたいなこともできたら良いな、と考えてはいます。……(中略)……人の細分化論って、オタクって言葉の使い方で、今マスコミが使っているような使い方は僕は大嫌いなの。……(科学者や政治家も自分のコトしか見えていない人を「オタク」と呼称することに対して)自分が暮らしている世界のことを普通にフラットに見れる人ってのはすごく貴重なんじゃないかな、って思う。そういうセンスを、我々はもっと持つべきなんじゃないかなって思うのね、ニュータイプ論っていうのは実はそれなんじゃないかな。……(中略)……普通に世間に居る人達のオタクさのヤバさ、怖さっていうものをもっと正確に見ていくべきじゃないかと思うんだよね。そういう会話でニュータイプ論をやっていくしかないのかな」(『語録』p162〜163、初出92年2月)

 監督は、まずニュータイプ論をリセットすることから語り、そして「(自分しか見えていない、そして世間にどこにでも居る)オタク」に相対する存在としてニュータイプを再定義できるのではないか、と話しています。

 当時は「オタク」バッシングの真っ只中。オタク→危険人物と見られてしまう頃に、監督は「オタク」はどこにでもいるし、政治家・科学者だって見方を変えれば「オタク」なんだ、と話す。

 ファースト、Z・ZZと「ニュータイプ」という言葉が世間に流布していくうちに歪んでしまった語意を削ぎ落としていって、辿りついた新しい疑問。

 それが、今のニュータイプ論へと続いていて、だからこそ、ファンの要求とはズレてしまった応えに繋がっている

 以下からは、『Gレコ』を手がけた後の発言です。

「ニュータイプという言葉は他に見つからなかったので使っている。客にすり寄せている。この十年でニュータイプは変わってきた。第六感は死んでいる。カンのいい人、理知的という言葉以上のものを持っているのだが、ニュータイプ以外のフレーズがない」(2015年4月12日青山カルチャーセンターにて)
「メッセージ、LINEで伝わらないのにハグ一つで伝わることもある暮らすというのはそういう面倒くさいもの。……大ゲンカして分かり合えるより気持ちいい。ニュータイプは周りを全部認めるようになること。認める、改善するという時に、怒鳴ったらダメだね、と思った。そうしたら相手も思ってくれる。そうやっていったら皆ニュータイプ。周囲に対しての私を意識することで事件に巻き込まれない。本能的な好悪をふんわりすること」(2015年8月27日Gレコ研究会にて)

 これらの発言は人を「全否定」することへの警鐘、中庸といった言葉に言い換えられるかも知れません。しかし「文字で説明、ロジックで話したら嘘」(同上)になるので、アニメという形で表現している(それが、監督の言う「子供向け」なのかも。事実、この話の直後に「子供に見せたいというのはそういうこと」と発言している)。

 『Gレコ』のラストで示された「違う価値観の容認と共生」。それが、監督のイマのニュータイプなのでしょうか。

 この発言がされたイベントで、監督はもう一つ注目すべき言葉を残しています(「オリジンを含めてクソ」という衝撃的な発言の前に(笑))。

「中国も美人の女兵士を並べてパレードしている。軍隊が『アニメ』になっている。もっとリアルに政治や経済を考えてもらいたい。(だから)最近のガンダムを見ることができない」「Gレコによってリアルな話がしやすくなる、と思って作った」(同上)

 バーチャルが一般に浸透してきた現在だからこそ、監督はこういう視点でニュータイプを語っているのではないでしょうか。つまり「人の革新」した先のニュータイプ論ではなく、一般の人間論、生き方・考え方としてのニュータイプ論

 監督は更にガンダム、そしてニュータイプという言葉を振りかざして『アニメ」の戦争を描き続ける『ガンダム』に警鐘を鳴らしています。


ニュータイプを広く使ってしまったので、リアルを語り戦争を語るものになり、(昔のガンダムは)ミリタリーの雰囲気になった。今は純ミリタリーものになっている」(2016年11月6日)

 そしてニュータイプに対し、こう結論しています(現段階で)。

「本能的に関係性で人は生きているのでニュータイプになれるわけがない。進化論的にはあるかもしれないが」
「我々はニュータイプにはなれない。だが絶望はしない。普通に死んでいけることがいい、手の届く安心、明日安心して目を覚ませる安心、そういう地球を作ることが大事だ」(同上)

 「人の革新」とは、詰まるところギミックでしかなく、作品の外でそれを使うのは、政治利用でしかない、と。

 ……実は『現場から』p210、編者の藤津氏によって、「ニュータイプ論は『ガンダム』のポーズでしかなく、SFっぽくみせようとする作者の擬態でしかなかった」「所詮物語のなかで不完全に語られた言葉にすぎない」という、劇場版三部作を作り終えた直後の監督の発言が引かれていて、「(この監督の言葉は)ニュータイプという言葉に囚われた多くのガンダムファンを、そこから解放するために富野監督が用意した文章だった」と既に語られています。

 ガンダムブームをライブで見ていた人たちにとっては、結論はもう、遥か前に出ている(笑)。

 しかし、そんな監督の意思とは関係なく、それから35年という時を経ても、まだニュータイプ論は続けられているし、「人の革新」「誤解なく解り合える」という口当たりのいい言葉がひとり歩きしている。既に違う次元で話している監督の言葉に耳を傾けず、監督から、自分たちが「満足のいく」応えを聞き出そうとする

 だから、監督に「オタクは嫌い!」って言われちゃうんだよね(笑)。

 ニュータイプは不幸になったんだ、というビルギットの言葉は、そういう的ハズレな論を今も展開し続けている外野の人々に向けられているようで、耳に痛いのです。

「むかしさ、ニュータイプってモビルスーツに関してはスペシャリストがいたよな?そういうのって大概個人的には不幸だったんだよな」『F91』

 ……誰しもオールドタイプとは言われたくはない。しかしニュータイプ論を振りかざす「オタク」そのものがオールドタイプなんだ、ってコト。

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