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僕たちはヒーローだった

 HERO 俺を讃える声や 喝采なんて 欲しくはないさ
 HERO だから 人知れず 悪と戦う

 アニメ『ワンパンマン』の主題歌の一節です。

 ヒーローを取り上げた映像作品は数多くありますが、近年そこで描かれている姿が、これまで描かれてきた「ヒーロー」とは変わってきているなあ、という感覚があります。

 例えば『僕らのヒーローアカデミア』では、ヒーローは「個性」を持った能力者であり、それを用いて敵と戦う、という事になっています。
 私が注目するのは「ヒーローとは『能力を持つ者』」ということです。能力を持っている者が、その能力を敵と戦い人々を守るために使っている。

 ヒーローとはいうなれば徹底的に無私に、パブリック(公共)のために身を危険にさらす存在。そしてその力を滅私奉公して身をすり減らす者。
 そもそもヒーロー(hero)の語源は供犠だとか。

 ですがこの姿って、ちょっと前までは「へっ(笑)」と鼻で笑われる存在として見られていた。しかし2020年の今、数多くのヒーローが跋扈している。それはなぜなのでしょうか。

 1960年代から『月光仮面』や『白馬童子』や『少年ジェット』、そして戦前からの人気作『鞍馬天狗』などたくさんのヒーロー作品がテレビ・映画に登場し、人気作になります。
 そして長く続く2大ヒーローコンテンツであるウルトラマン仮面ライダーが生まれる。
 海外に目を向ければスーパーマンやスパイダーマンがいますし、007だってヒーローといえばヒーローです。

 時代劇などにもヒーローはたくさんいる。そもそも、勧善懲悪のドラマを作るためには「(悪をやっつける)能力を持った」ヒーローを中心に据えて話を作る必要があるのですから、ヒーローばかりになるのは当然なわけです。

 彼らのどれもが「剣が強い」「頭がいい」「力が強い」といった人と違った能力を持ち(もしくは複数持ち)、それで悪行三昧をしたり世界征服をもくろんだりしている「巨悪」と戦っている。そのおかげで私達「普通の人」は平穏な生活ができるのですよ、というものでした。
 ウルトラマンも仮面ライダーも一応「能力者」ではありますね。片や宇宙人、片や改造人間です。
 しかしこんなことをずっと続けていたら当然ネタ枯れするわけで。手を変え品を変え、劣化コピー・粗製濫造されているヒーローに見ている方も飽きてくる。

 そんな中、日本で生まれたアイデアが「巨大ロボット」でした。ロボットという強力な力を手に入れる事で普通の人でもヒーローになれる。
 しかし、

 ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先

 という鉄人28号の主題歌にもあるように、その「能力」は当初、他人にも奪われかねない危険なものだった。
 その誰でも手に入れられる巨大な能力という設定を利用しつつ、主人公が「主人公である由縁」へと変えたのが『マジンガーZ』で使われた「身内が残した」という設定です。これにより主人公が巨大ロボットを扱える理由が付加され、場合によっては主人公しか扱うことができない、ということにもできるようになった。

永井豪のマンガとはかなり違ったキャラ造形の兜十蔵博士

 魔女っ子モノも同様です。ヒーロー(この場合はヒロインというべきか)である主人公のみが与えらえた「能力」を使って困っている人を助けたり悪人を懲らしめたりしていく。

 またもう1つのエポックメイキングは『宇宙戦艦ヤマト』です。ヤマトのクルーは選ばれたとはいえ(真田さんだけちょっと違うかもしれないけれど笑)ただの人間です。それが、遥か彼方のイスカンダルまで船一隻で行って1年以内に帰って来なければならないし、敵は次々強力な兵器を繰り出してくるわけですから、これはテレビの前の人もひやひやしながら応援するわけです。
 その点では、『ヤマト』の登場人物たちも紛れもないヒーローです。

 とまあ、ここまで長々と書いてきましたが、ガンダム好きの私としては「それを『ガンダム』の主人公アムロ・レイの登場が変えた」と論を展開したいところですが、生憎そうはいきません

 なぜなら、アムロは正義漢だからです。
 アムロは「ネクラ」「オタク」「メカに強いというだけで人並外れた体力があるわけではない」「親父にもぶたれたことない」と、それまでのヒーロー像からはかけ離れたキャラクター造形をされているので、ついヒーローらしくないという誤解を受けがちです。
 しかし、それらを一つ一つはぎ取って、純粋に彼の行動理念・戦う動機について考えると、そこには紛れもない70年代的なヒーロー像が見て取れるのです。

初期設定のアムロには「正義感」「負けん気」「行動的」「感情的」という造形がなされていて、その設定は以後もあまり変化していないと思います

 アムロがガンダムに乗った直接的な動機は、サイド7で過ごしてきた日常をジオンのザクによって壊されてしまったからですし、その端的な表現が目の前でお隣に住んでいたフラウ・ボウの家族が死んだことです。この「普通の生活・平和な日常」を壊した存在だからこそ、彼にとってジオンは「敵」になった。
 その時にはまだ漠然とした存在だった敵・ジオンですが、その後ギレンの「立てよ国民」演説を聞き、そして明確な敵としてのシャアが現れた事で、はっきりとした輪郭をもった敵になっていく。だからアムロは最後まで戦い続けた。

 同じ『ガンダム』の主人公としてカミーユもここで取り上げておきます。カミーユこそ、かなりプライベートな、名前を笑われたというだけでジェリドをぶん殴ってしまったエキセントリック少年ですが、それでも作中でハマーンやシロッコを「多くの人を不幸にする」「いてはいけない」存在と叫びます。これは身の回りの数々の人が戦場で散っていったことから導き出された答えでしたが、それでも戦争を利用して地位を高めようとしている人々=悪を滅ぼすことをカミーユは自らに課しています。

父や母との関係、コンプレックスなどを抱えていたが、数々の人との出会いを経て社会の中での自分の役割に気づいていった

 さて、アムロやカミーユはその個人主義的な言動と、作品世界の雰囲気からヒーロー的な要素が薄いように思われてますが、その言動を拾い集めれば、そこには昔ながらの「ヒーロー」が見え隠れしている事が分かって頂けると思います。

 「ヒーロー」が大きく変化するのは90年代に入ってからです。

 80年代半ばまでは、リアルロボット路線という作品群の中でビジュアル・設定・世界観などにリアリティを追い求めながら、その実、主人公の行動理念は昔ながらの正義漢、というものが多かった(「やぁってやるぜ!」とか)。
 それに対して人気を集め始めた「週刊少年ジャンプ」の連載マンガを原作にするアニメでは「ヒーロー」があまりいません。
 一連のジャンプアニメの主人公たちの行動理念は因果や宿命であり、さらにはもっと純粋な私的動機によって行動します

 例えば『ドラゴンボール』の孫悟空は、当初ドラゴンボールを集めてじいちゃん(悟飯)を生き返らせることが動機でしたが、旅をしながら様々な相手と戦ううちに「もっと強くなりたい。もっと強い敵と戦いたい」と、私的動機に突き動かされながらストーリーを牽引していきます。
 物語の中盤以降はベジータ・フリーザ・セルそしてブウと、地球を滅ぼしかねない強敵と戦いますが、彼らと戦う意味は突き詰めれば「強いヤツみると、オラ、わくわくすっぞ」なわけです(それを「サイヤ人の本能」としてしまったのは設定の妙)。
 『ドラゴンボール』の完結と入れ替わりでスタートした『ワンピース』のルフィも海賊王になるという私的な動機です(その後かなり因果や宿命が絡んできていますが)。

 時代は少し遡りますが80年代の大ヒット作『キン肉マン』がスタート当初、ヒーローをパロディにしたギャグマンガだったことは、その時代のヒーローの見られ方を端的に表しているのかもしれません。

後の超人プロレスバトルマンガからは想像もつかないヒーローギャグマンガだった

 そういえば日本の2大ヒーロー、ウルトラマンも仮面ライダーも80年代には全く製作されていませんでした。
  因みにアメリカでも80年代はクリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』が数本作られただけでしたね。ティム・バートンの『バットマン(89年)』が出るまで(出てもしばらくは)アメリカでもヒーロー不遇の時代だったといえると思います。

 そんなヒーロー冬の時代にトドメをさしたのが『エヴァンゲリオン(95年)』(のヒット)でした。
 よく碇シンジはアムロと比べられますが、両者の最も大きな相違点は「正義漢」であることだと思います。
 アムロは当初は嫌がっていたはずなのに、その後はニュータイプとして最後まで戦い抜きます。最後にはたった一人でアクシズを押し返そうとしてしまうくらいです。

 対して碇シンジは初出撃の際には一度は拒否しながらも、綾波レイの血を見て出撃を決意するまでは良かったのですが、物語後半、♯19「男の戦い」以降はずっと拒否です。自分が戦わなければ世界が滅ぶかもしれないのに、それでも戦わない。
 で、やっと戦っても結局セカンドインパクトが起こって世界は滅んでいる(笑)。

現行劇場版ではサードインパクトも起こりそう

 キャラクター造形の根本の部分でアムロとシンジは違うのです。

 このシンジの悩みが、その後のロボットアニメに大きな影を落とした。2000年代から2010年代にかけて作られたロボットアニメの主人公たちは手に強大な力を持ちながら「自分が何のために戦うのか(何のために生きるのか)」という哲学的な問いに対してのアンサーを見つけなければ戦えなくなってしまった

 最近Twitterで「ロボットアニメが滅びる」なんてことを言っている人がいましたが、意外とロボットの出るアニメは作られているのです。ただ、そのほとんどが「ヒーロー」としてのロボットアニメにはなっていないということです(ちなみにロボアニメが滅ぶなんて90年代からずっと言われてきてるし)。

 そんな時代に息を吹き返してきたのが、昔ながらの「能力」を持ったヒーローたちだった
 しかし、そんな彼らも現代的な設定を与えられています。『TIGER&BUNNY』のスポンサーロゴしかり、『ワンパンマン』のヒーロー協会しかり。そんな設定を与えられ、「ヒーローだってお気楽にやれてるわけじゃないんだよ」という諦観をトッピングしながら、職業としての「ヒーロー」をやるのが「今風」です。

 他方、アメリカさんも進歩を遂げたCGの技術で、過去にはチャチかった特撮ヒーローが勇ましくスクリーンに戻ってきた。X-menやマーベルヒーローなどが、以前ならプロデューサーがOKしなかったであろう連作映画に次々に登場するようになった。こちらは設定昔ながら・映像超近代的、という感じです。

 どちらにせよ今、ヒーローがウケている

 改めて思うのですが、彼らは昔と同じ「ヒーロー」なのでしょうか。
 
 現代の個人主義と相反する存在、前近代的な「滅私奉公」の代名詞として捉えられ描かれてきた以前のヒーローは、80年代・90年代には冷笑の対象になっていました。

冷笑の対象

 『ゲッターロボ』の最終回で武蔵は、自分のミスの責任を取る形で敵と相打ちになり死んでしまいます。『マジンガーZ』ではマジンガーがこれでもかと破壊されたところにグレートマジンガーが現れ、次作に繋がる。
 こういった犠牲(サクリファイス)を伴った「特攻精神」を元に組み立てられたストーリー展開を、シニカルに否定してきたのがその後のロボットアニメでした。
 そして、その滅私奉公型熱血ヒーローを相対化できたからこそ『機動戦艦ナデシコ』の劇中アニメ『ゲキガンガー3』のように、それをネタとして消費できるようになった(作品内ではそれが重要なファクターになるのですが)。

 そして今、ヒーローは特殊な能力の1つでしかなく『ジョジョ』のスタンド能力とさほど変わらない扱われ方をされているように思います。それぞれが持っている能力を活かした戦い方で、敵を倒すこと。それで評価されたりお金を貰ったりできる。いうなれば職能です。だから、熱血することもない。

 『ワンパンマン』の主人公、サイタマが「趣味でヒーローをやっている者だ」とうそぶくのを面白いと感じて観ていられるのは、メタ化したヒーロー像を客観的に見るだけの姿勢が私達に備わってしまったから、と言えなくもないのです。

 アメリカではそれが『キック・アス(10)』だったように思えます。ヒーローの恰好をして悪を倒すことを「コスプレ」として消費している。大ヒットしたこの映画に対する観客の姿勢も、日本でのヒーローの見方に近しいように感じられます。

 日本ではウルトラマンと仮面ライダーが復活し人気を得ています。特に仮面ライダーは昭和の本数を大きく上回り、高い視聴率を誇っています。

 21世紀に人気を集めるヒーローは、滅私奉公という言葉の持つプレッシャーから解放され、私的動機と個人主義という現代的キャラクター造形をされつつ、受け手側が「こういうヒーローでもいいじゃないか」という見方ができるまでに成長したからこそ、存分に活躍できているのだと思います。

 それはSNS時代になり、公私の区別が無くなってしまった今だからこそ生まれたのかもしれません。

 あ、「悪」の代表的な目標、世界征服が「(笑)」付きで語られるようになったことまで書けなかった。

ムーブメントになっている『鬼滅の刃』からは新しいヒーローの姿は生まれてくるのか
 


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