見出し画像

【鳥獣時間】

漆黒の闇。辺りを完全な暗闇が支配し、虫たちの小さな鳴き声以外は何も聞こえない。冷たい風が時折強く吹き、頭上にあるドングリの実が地に落ちる音が静かに、不規則に木霊(こだま)する。風が頬を掠(かす)めるとそこにいないはずの何かが暗闇の中からじっと此方を覗いているような錯覚に陥り、背筋には何とも形容し難い逼迫(ひっぱく)した緊張感が走る。青白く細い波動のような何かを痛いほど背後に感じ、鳥肌と寒気が一気に体を締め付ける。この時ばかりは霊的な、そして精神的な世界の存在を感じぜずにはいられない。突如、深い暗闇にグルルとムササビの不気味な鳴き声が鳴り響く。地平線の遥か遠くにはまだ登っていない太陽の微かな光が空に反射して、まだ見ぬ朝焼けを迎え入れる準備をしているようだ。漆黒の世界がやがて太陽の僅かな光によって淡い藍色の様相を帯びた時、最後の鳥獣時間が幕を開ける。夜と朝の間に訪れる僅か数十分の鳥獣時間。淡い藍色に包まれて、微かに森の中に木漏れ日が差し込みはじめ、木々の輪郭や葉っぱの朝露が視覚で感じとれるようになったその瞬間に生命の鼓動を感じられるのだ。ついさっきまでは虫たちの静かな合唱だった山のBGMは気付けば小鳥たちの鳴き声にとって代わっていた。山頂にある集落に向かう登山道を穏やかな光が与えてくれた勇気と希望を胸に歩いた。頭上にはなだらかな崖のようになっている竹林があり、その下には青々とした草が朝露を纏っている。穏やかな日本の原風景を脳裏に焼き付けていると、生い茂っている草と草の間から一直線に此方(こちら)に向けられている視線のようなものを感じた。まだ夜は開けきっていないため、辺りは薄暗く、人間の目はまだすぐに対象物にピントを合わせられる状態ではなかった。暗がりに目がだんだん慣れてくると、黒と純白の瞳がこっちをじっと見ていることに気が付いた。瞳だけに合っていたピントがしっかりとその対象を捉えたとき、少し後退りせずにはいられなかった。ほんの2mほどの距離でやや黒色の強いカモシカが此方を凝視していたのだ。2本の角の根元はやや白みを帯びた黒だが、先端に向かうにつれて黒曜石のように鋭く光っていた。体毛は黒色が強く、滑らかな毛質には艶やかな上品さを感じることができる。何か不慮の災いにでもあったのか、左目はまるで幽霊を眼(まなこ)に宿しているように白く濁ってしまっていて、それが本来の目の役割を果たしていないことがすぐに見てとれた。人間の気配を感じたのだろうか、少し崖を上に急足でのぼり、草を頬張るとその姿は竹林の中に消えた。まだ微かに竹林の中でカモシカの残像が動いているのが分かる程度だった。
気付けば辺りは優しい太陽の光に包まれ、木々は本来の青々しさを完全に取り戻していた。まだ若干、暗さはあるものの普段の早朝の情景に近い。地平線の上には太陽が登り、オレンジ色の光線が地平線の上を縁取り、その上には真っ青な空が見えた。白い雲海が山々を覆う景色は描写の領域ではない。この情景を言葉にしようとするのがそもそも間違いなのだ。心の隙間が橙色の温もりで照らされ、心底満たされていくようなこの感覚はその場にいなければ決して味わうことのできない秀逸で、至極な感情である。風景に満たされた後、木々に包まれ、たくさんの落ち葉で敷き詰められた斜面に目を向ける。緑豊かな木の下に佇む一頭のカモシカがじっと此方を見つめていた。カモシカとの目線の交換をしている時は別世界に誘(いざな)われているような感覚に襲われる。その世界に一度足を踏み入れてしまえば、自分が水の雫になって渓流に生えている苔の一部になって消えてしまうような。神聖で、厳かな時間が淡々と流れていて、それは永遠に繋がっている。暫くするとカモシカはゆっくりと起き上がり、谷の下へと消えていった。太陽は地平線からすでにかなり登り、昼下がりと変わらない光の世界がそこにはあった。ホオジロやカシラダカの成鳥たちが若鳥たちと鳴き声を交わし、喧騒とした朝を迎えていた。追いかけっこをしたり、給餌をしたりする姿は微笑ましく、平和的だ。しばらくすると開けた場所に出てきていた彼らもまた日が登るにつれて、その姿をどこかに隠してしまった。鳴き声だけが山々に響き渡っている。しばらくするとケーブルカーが動き出したのだろう。続々と人々が行き交うようになってきた。集落の住人も本来の活動を始め、山頂はいつもの賑やかさを取り戻していた。竹林の近くでは、登山客たちが楽しそうに会話を楽しみ、木々が青々としている谷のすぐ上を人々が行き交う。鳥たちが戯れあっていた道を郵便局の車が通り過ぎる。ただ、そこに動物たちの姿はない。人間時間と鳥獣時間。この2つの時間は決して交わることなく、個々に独立した世界を形成する。夜と朝の狭間の、淡い藍色の様相を呈した数十分の世界。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?