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君生き、見ました。

※この記事はネタバレを含みます。

クソ暑い週を越えて9月になった。日曜の朝8時というクソ早い時間に友達を連れ出し、近場の映画館へ『君たちはどう生きるか』を観に行きました。

考察が捗る系物語が好きでお馴染みのわたし、ワクワク。「観る人によって感じることや読み取ることが違う」「どう解釈してもよい」そんな前情報を周りからもらっていたものだからワクワクは増します。友達に「感想を語り合いたいからぜひ観てほしい」とお願いされたのもあって、日曜早朝の繰り出しとなった。

日曜の朝7時過ぎというのは、BGMをつけ忘れたように無音だった。車も人もおらず、世界よりわたしが早起きしたみたいだった。

友人を迎えに行き、車で映画館へ向かう。お互い少し寝坊していたが、なんとか映画開始5分前には着席できた。

「観る人によって感じることが違う」というのは、芸術作品のようだ、とわたしは思う。高校の時、美術部を少しやっていたからたぶん一般の高校生よりは芸術作品に触れていた。それらはつまらない模試や定期テストのようにはっきりとした正解があるわけではなく、作品の前に立つ人の心をありありと映す。美しい女の肖像が、初恋の人に見えたり、若き日の妻に見えたり、在りし日の母に見えたりするように。たぶん今回のジブリはそういった、ある程度観客に判断や理解の一端を握らせてくるだろうと予想した。

舞台は戦時中の日本。主人公の母が入院している病院を空襲によって焼かれ亡くなる。戦火を逃れ田舎の屋敷に越した主人公は、父と、母代わりに現れた母の妹、そしてたくさんの女中おばあちゃんズと暮らす。学校には馴染めず、いじめられる。主人公は自分で頭を石で殴り被害を盛ったことで、父親はいじめられていることを確信し、学校に怒鳴りこむ。その一部始終を時折アオサギが見に来る。

アオサギは主人公に「母は死んでいない。」と語りかけ、屋敷の程近くにある塔へ誘う。身籠っていた叔母もいつの間にか塔へと吸い込まれるように消える。叔母を追い、主人公とアオサギも塔の中の世界へと迷い込む。

塔の床をすり抜けて落ちるように別世界へと移動する。夢のように妖しく、美しい世界で主人公は様々な人に出会い、自分の気持ちを再確認し、叔母を新たな「母」と認め、共に元の世界へ帰る。

大雑把に言うと今作はこんな形である。
観終わってすぐ、件の友人に即LINEをした。

勢いあまって誤字等あるが許してください。
以下、わたしの考察の詳細。

1.塔は墓であり、塔の中は魂の世界。

塔は、作中で大叔父が建てたもの→実は空から降ってきた塔状の隕石を、大叔父が周りを囲うような建物を建てた、という話になっている。また、塔の中で出会う火を操る少女ヒミからは、「塔はあらゆる世界に跨っている。」と伝えられる。塔の中の世界なのに、入ってきたのと同じ塔を見るのだ。とするとこの塔は、世界を行き来するためのワープポイント的なものなのではないか。

塔の中には人間もいるが、人間っぽい真っ黒な影、デカくてめちゃくちゃ喋る獰猛なインコ、ヒレの多いデカい魚、空へ昇り赤ちゃんとして生を受ける「わらわら」、そしてその「わらわら」を生きるために食らうペリカン……など、こちらとは違った生き物と生態系が認められる。また、塔の中には地の果てまで続く草原や海が広がっており、石造りの建物が所々ある島の上に建ち、各々の命が暮らしている。これらはあらゆる命の元となる魂なんじゃないだろうか。そして多分時間軸も狂っている。ヒミが外の世界に出る扉を前にした時、主人公はヒミが実の母の魂だと気づく。しかしヒミとしてはこれから生まれるようなことを言うのだ。ヒミが出ていった扉は、主人公の生まれる前につながる扉だったのではないか。

ごめんなさい取り留めがなくなったのだけど、つまり、
・塔の中の生命は現実的ではなく、あらゆる命の素、魂なのではないか。
・塔から出ると、魂は命に変わる。
・主人公の母を含む魂は、また生まれ変わることができる。(同じ人間になることもできる?ヒミが再び母になる扉を開けていた。)

こんなところだろうか。
つまるところ、塔の中は魂の世界、魂の世界と繋がるものでこの我々の世界にあるものと言えば墓なのではないか。墓をあばくことは本来あってはならないが、主人公にとっては母の死を受け入れるために自身を危険(戻って来れなくなる=死ぬかもしれない状況)に晒し、ギリギリのところで母の命が巡っていること、また母の妹を新たな母として認めることができた。

2.ナツコは何故魂の世界へ?

ナツコとは母の妹である。産前で悪阻がひどいはずなのに、ふらふらと塔の方へ歩いていくところを主人公は目撃している。命を宿したものがわざわざ魂の世界へ行くこと(死に近づくこと)は何を意味するんだろうか。

・命とは、危ういものである。
わたしは妊娠できないので想像するしかないのだが、命を宿すことは相当「もっていかれる」のではないか。だって一人の身体で二人分のことをしないといけないのだから。その中で自分の存在すら危うくなることはありそうだ。妊娠鬱のようなことがナツコには起きていた? だから塔に呼ばれた? サギがそそのかした可能性もありそうだけど……

・他者との触れ合いとは、危ういものである。
ナツコは、わざわざ塔の中、魂の世界で出産することを選んだと言われていた。何枚もの大きな舞台の幕のようなものを潜った先で守られるようにナツコは寝ていた。そこに主人公が助けに(連れ去られたと思っているから)来るが、ナツコは鬼のような形相で「どうして来た」「嫌いだ」と主人公へ叫ぶのである。命とは、他者との触れ合いとは、ある種相当な恐怖であろう。姉の子を愛してあげられるのか、自分は愛してもらえるのか、お腹の子を受け入れられるのだろうか、子に自分は受け入れてもらえるのか、ナツコと主人公との関係はそのまま、ナツコがナツコの子へ抱いている感情に重ねあわされている。

3.サギ男はなぜ、母のレプリカを主人公へ見せたか?

これはズバリ、主人公が母の死を受け入れる覚悟があるかの確認だろう。母は死んでいないと嘯いて、それで安心するだけならきっと魂の世界へは入っていけない。また、恐怖するのでも、魂の世界へ行く胆力はないだろう。ヒミは母であるのだから、主人公を誘いだし、(ヒミにとってはまた)話すことで、主人公を励ましたかったんだろうか。そして、死とは恐ろしいが、命や魂は形を変えながら巡るのだということも、あの世界をヒミが案内する中で見つけて欲しかったんだろうか。

さて貴方の考えはどうだろうか。以下、友人の返信、解釈。

こうもわたしと違うかと驚いた。何を背景とし主とするかで見え方が変わる騙し絵のように、各々が思っている要素の優先順位が違う。大袈裟に言えば生きていたってそうだ。ほら、芸術じゃないか。はやお、やるな。

わたし、映画のようなデカい作品を観るとだいぶガーンとする。感情移入したり、絶望したりしてショックを受けるんです。ハッピー映画ならいいんだけど、好みがこういう映画だからなぁ。というわけで今回終わった時に、母の愛とか、主人公がつらいことを乗り越えたという達成感や、そもそも命とは……死んだ俺の友達は塔の中みたいなところに行ったんだろうかとか思ってしまい、目が潤んだ。観客が少なかったら泣いていたかも。それほど、自分が今生きているということ、きっと生かされていること、たぶん命はじゅんぐり巡っていくのだろうということを考えさせられた。

この映画には救いがしっかりあった。その分自分が背負うべき罪や、どうにもならないことだってたくさんあるんだろうなとも思った。ファンタジー要素が強くても、伝わってきたり、もとい自分が認めたメッセージ性は、強烈に生々しい映画だった。命や自分が生きていることについて考え込んだことがある人には、ぜひ観てもらって感想を教えて欲しい。これほど観る人に委ねてくるもんもないだろう。ジブリからまた名作が生まれてしまったな、と思った。とりあえず、もうしばらくは、じたばた生きるよ。あなたも生きてね。

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