デザインの意思決定を多数決に頼るのはアリです
など、オリンピック関係とか公共物のデザインとかに関して「多数決」を使うのは間違いじゃないか?という意見をチラホラ見ました。
理解しますし、そもそも合意する点が多いです。ですが、僕はあえて別な視点から多数決というデザインを書きます。
多数決でもアリでしょ?と言うことを説明します。
多数決は「納得感」をデザインする手法として適切です。
意思決定の結果として重要な「納得感」を演出するデザインとして「多数決」は最適です。
別な言い方では「社会のユーザ体験を作っている」のと同じです。
つまり「多数決で選ぶデザインはデザインじゃない」系な意見は矛盾します。多数決自体がデザインだからです。
もう少し詳しく説明します
多数決にも色々種類があり、しかもそれ自体に様々な機能があります。使い方次第です。
僕はAIスケジュール管理アプリ(OnefuncPlan)を作っていて、そこには多数決の原理というか、社会選択理論の仕組みを取り入れた仕組み(デザイン)があります。
社会選択理論はゲーム理論や経済学、行動経済学の領域で、簡単に説明するともし社会にも個人と同様に選考があるとすればどのように社会の最大限の合意するのが最適なルールか?みたいな事を考えるジャンルです。有名なところではセンの定理、アローの不可能性定理などがあります。
僕が実際にOnefuncPlanの中でAIにさせているのは「ボルダ方式」での合意です。他にも色々なルールや方式がありますが、それぞれ一長一短です。(コンドルセ方式など色々)
仕事でも使えます。僕がOnefuncPlanでやっていることは別な記事で書いたので、そちらも是非見てください
ちなみに、僕が作ったシステムは例えば、いつ選挙をすれば1番参加者が増えるのかがわかります。サーバの負荷に問題なければ世界中の人にとって都合のいい日時を見つけられます。しかもAIによって自動で。
おそらく、オリンピックのマスコットデザインの最終決定に多数決を利用した件も、皆さんが想像している多数決も、ナポレオンが好んだ?手法である「自分の一番好きなものに一票を入れる」形式で、いわゆる単記無記名投票みたいなのだろうと思います。
単記無記名投票は「納得感」が半端ないです。これは想像できると思います。なぜなら「1位が多い人が勝利」です。単純です。
僕がアプリで利用しているボルダ方式は少し違います。候補に点数(順位)を付けて、その点数が一番大きい候補が勝者です。
一見すると同じ多数決ですが、全然違います。
例えば上にナポレオンは「単記無記名投票を好んだ」と書きましたが、それと同時に同じ時代に生きていたボルダが作ったボルダ方式に反対しました。それは何故か?
反対した理由として、ボルダ方式は「多数派に好まれる候補よりむしろ、幅広い人が受け入れ可能な候補を選ぶ」つまり、自分の評価が「好きか嫌いかどちらか極端」な場合、ナポレオンにとっては不利になります。ボルダ方式は「みんながそこそこ良いよね」と思えるものを選びます。
この多数決の方式の違いによる効果を踏まえると、なぜ多数決でデザインを決める行為がアリなのかも同時に説明できます。
多数決とは社会の納得感を作り出す手法
「多数決で最終決定」「多数決の方式」で決めること自体がデザインなのです。なので、「多数決で選ぶデザインはデザインじゃない」と言う主張は僕から見て矛盾しています。
そして、社会の総意を決めるデザインの手法として多数決は有効な手段であり、しかもその多数決の方式を決める行為は重要なユーザ体験の演出です。
デザインというのはなんて傲慢なんだ。。と思います。ですが、それが宿命。それが嫌ならば山に籠るしかない。「禅」です。ジョンケージのように楽譜に黒い点を置くのをやめなければいけない。あるがままにです。
全然話は変わりますが、昔、中国で自分の自己実現ができないと悟った賢人は山に籠って花鳥風月を楽しんでいました。時が全てです。時代が変われば自分の主張も通りやすい。例えばみんなが好きな諸葛亮孔明も劉備があのような状態でなければ採用されないし、そもそも劉備以外で採用されても、ここまで有名にはなっていない。
いつ刀を抜くか。それまで磨くのをやめないのが重要だと思います。
全然話が変わりました。エモいですね!
一応最後に元の話題に戻って書きますが、
「多数決で最終決定」「多数決の方式」で決めること自体がデザイン。
そして、社会の総意を決めるデザインの手法として多数決は有効な手段。
ユーザ体験の設計の方法は色々です。
*ちなみにあのマスコットは4択ぐらいだったと思いますが、そもそも、もっと候補があってもよかった可能性もありますね。なので、その時点でもデザインが入っています。そして、それは中国の共産党と同じ理屈です。中国でも選挙はしますが、候補者は息のかかっった人ばかりです。つまり、多数決の前段階からデザインは始まっていて、しかもそれが僕から見るとかなりの村社会の文脈しか踏まえていないものばかりで、はっきり言ってブルシットです。
もっというと、謎の派閥のようなものです。日本のデザイン界隈、彼ら彼女らの全てとは言いませんが実際にモノを見て触って評価しないクソッタレが多い。作者名とかだけ見て評価します。僕は一応スタートアップの社長でもあるので、こう言った態度をとる人には慣れていますが、全員僕の脳内の暗殺リストに記帳しています。(もちろん実際には何もしませんw)要はクソッタレと思ったことを糧に作業してたりします。余計なカロリー消費です。(暗殺リストは記憶なのでいなくなったりしますが、本当に酷かった人は覚えています。多分一生忘れません。そして僕はなるべくそう言った態度を取りたくないとも思っています。)
毒を吐いて終わります。
念のため書きますが
最後に一応書きますが、僕は元々の「公共だろうと何だろうとデザインを多数決で決めるのは。。ちょっと。。。」って思う意見は理解できますし、同意します。
ただ、この話題をここで終わるのは多様性に欠けると思ったので書きました。
そもそも、今までのデザインや工学はシビルエンジニアリングなどの発展系、要は街のデザインなど市民の為のデザインを考える分野など、もともと体系的な?知識やケースは色々あります。要は土木や工学ですね。工学も人の移動がスムーズになるような設計を踏まえて本来はするものです。人の移動をマルチエージェントシステムで想定するなど。これまでは経験とノリの部分が多かったと思いますが、それがデータを証拠として論理展開する人が増えていくでしょう。現に数字ドリブンです。
これからは社会の設計にAIなどITシステムも絡む。
そうなった時にこそデザイン的な思考が必要だと思います。
うまく社会が回ることを考える際に、そのストーリーに登場する人物は1人ではない。そのストーリーの中でうまくそれぞれの領域の文脈を一つにして纏めること。それこそデザインの強みでもあるし、21世紀にやるべきことはそれだと思っています。
僕は機能主義は次の段階に進んでいると思います。明らかに。AIで。それを纏めて、ある程度のデファクトを作るのは今です。現代です。僕らです。僕らとはユーザも含みます。納得感は重要です。
偶然同じ時代に生きて同じ興味があるもの同士。左手で握手、右手で殴り合い。健全に高め合いましょう?w
以上です。