小説『愛子の日常』 本編2.
〜セントの記憶 Ⅱ.〜
実は、さやかとセントは同じ会社の同じ部署で働いていたのだが、セントがそれに気づくまでには長い長い時間がかかった。
時を知らせるハト時計までもが黙りきるほどの長い長い時間だった。
きっとこの話を聞いた人々は、セントは馬鹿なのだと思うことだろう。
まさか自分の席の右隣りに座っていた女性が大西さやかだとは、セント自身も気づいた時にはものすごい驚きようだったのだから。
これは、グリニッジ天文台に行った週末が過ぎ、新しい週をむかえた月曜日の話だ。
「ぴーぴー、キリキリ、ピョピョョ〜」小鳥たちが音痴に合唱をはじめた。太陽はもうとっくに出ているのだが、カーテンを閉め切って寝静まった人々は、まだ起きてこない。いつもと変わらないロンドンの中心街の静かな朝だった。
さやかはいつものように6時に目が覚めた。
とくに目覚ましをつけているわけではないが、いつもこの時間になると起きてくる。
カーテンを開け日光を浴びるために窓際に姿を現したが、顔を洗うために再び部屋の奥へと姿を消した。
さやかは、父と母と3人でこのロンドンの中心街で暮らしていた。
「カタカタカタカタ」「ゴトゴトゴト」静かな街に忙しそうな人々の生活音が聞こえてきた。
これから大西家の1日がはじまるのである。
朝ごはんはいつも母親が作ってくれる。イギリスでは朝食をしっかり食べる人は少ないが、日本人の両親だけあってそこは徹底している。
さやかはその横で自分のお弁当を作りはじめた。これが大西家のいつもの光景だ。
さやかはお弁当を作り終わると、母親がこしらえた朝食を食べるために席についた。
「いただきます」日本語で挨拶すると、器用に箸を使い、はしから摘んで口に入れた。
今日の朝ごはんはというと、白米に鮭の塩焼き、ポテトサラダに、ワカメの味噌汁だった。
さやかは全てたいらげると時計を見た。まだ会社に行くには早そうな時間だった。
そう思うとすぐ歯を磨き、リビングの片隅に置いてあったトランペットを取り出した。
「ブーッブーッ」吹く姿だけはいっちょまえだった。しかし、さやかは曲を演奏できない。
「ブーッブーッ、ドレミファソラシド〜、ブーッ、ドシラソファミレド〜」
これがさやかの日課だった。
さて、家から歩いて30分ほどのところにさやかの職場はあった。
いつものごとく、さやかは仕事がはじまる40分も前にもかかわらず会社に着くと、平気で自分の席についた。
仕事の準備でもするのかと思いきや、そうでもなく誰か人が来るのを待っている様子だった。
彼女は人が来るやいなや「おはよー」と声をかけ、その人の方へ近寄ると何やら話しはじめた。
また違う人がやってくると、今まで話していた人との会話は切り上げ、「おはよー」と声をかけては近寄って会話をはじめた。
そんなこんなで、40分も前に会社に来ていながら、何もやらずに仕事の時間になってしまうのだった。
そして、いつも10分前にセントがやってくるのだが、この日もそのルーティーンは変わらなかった。
「おはよー」セントの時も変わらず、さやかはそう言って近寄っていった。
ぼーっとしていたセントだが、彼女が昨日グリニッジ天文台に一緒に行った大西さやかだと分かると、目をまん丸にし「あっ、、、昨日の、、、」と言葉が出てこない様子だった。
さやかは、セントが驚いていることを知ってか知らずかただただニコニコしていた。
この日はセントとさやかはお昼が一緒だった。
というのも、いつもは当番制でお昼を取るのだが、この日はさやかが希望を出しセントと同じ時間にお昼休憩を入れていたのだ。
セントは会社の休憩室ではごはんは食べない。知っている人にごはんを食べる姿を見られるのが好きじゃなかった。
セントとさやかはセントのルーティーンに合わせて、道端のベンチでランチを食べた。
セントはいつものように近くのカフェでテイクアウトしたバゲットサンドとコーヒーがランチだった。バゲットサンドの中身は気分によって変わるものの、いつもランチはバゲットサンドを食べていた。
その隣でさやかは持ってきたお弁当を食べた。
とくに会話はなかった。
食べ終わると道ゆく人々を眺めながらセントはぼーっとしていた。
彼にはこういう時間が必要なのだ。
いつも何かのことを気にしてしまうセントも、この場所では何も考えずにいられた。
セントは、多くの人が行き交う街の中心街の片隅に、誰にも認識されずにポツンとたたずむその感覚が好きだった。
そうしてしばらくして、セントとさやかは一緒に職場に戻っていった。
さやかは職場の扉を開けると「ただいまー」と言って部屋に入っていった。周りは「おかえりー」と言って彼女を迎えた。
後に続いてセントも一緒に部屋に入ってきたのだが、気まずそうに肩をすぼめ何やら言葉を選んでいる様子だった。
セントの事だから、さやかのように「ただいま」と言うのは馴れ馴れしすぎるとでも思ったのだろう。
そうしてセントは「戻りました」とボソッと一言言うと自分の席へとぱっぱと行ってしまった。
この時からだろうか、セントがさやかの言動をいちいち気にかけはじめたのは。
セント達が席に着くと、とある女性が差し入れにケーキを持って来てくれたのだが、さやかは相手がその意思を伝えるより先に手を出した。
両手を前に出し、手のひらを広げて「ちょうだい」のポーズをしたのだ。
セントはそれを見て、なんてマナーのない奴なんだ!図々しいにもほどがある!と思った。
それからというもの、セントはさやかのちょっとした仕草でイライラしはじめたのだった。
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