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東日本大震災を思い出しました


東日本大震災について書きますので読みたくない方はご遠慮お願いします。

先日の地震、大きかったです。皆さん大丈夫でしたか?神奈川県の地元でも震度4、そろそろ寝ようかと思いながらテレビを見ていました。テレビで緊急地震速報が流れてから数秒後に、30秒以上続いた揺れ、揺れが収まると速停電になりました。

仏壇からローソクと懐中電灯を探し、家族はスマホの明かりで私のいる居間に降りてきました。イヤーイヤびっくりしたと。震源地がどこか?スマホでニュースを見る事が出来ず、しばらく家族でローソクの火を見ながら話をしていました。

もう、10年も前ですね、東日本大震災。震災の時は中国にいましたが、他の日系会社と打合せをしていました。中国に住む日本人や中国人から続々と連絡を頂き、打合せを切り上げホテルに帰りその翌日までNHKワールドを見ていました。

親の故郷は岩手県、岩手・宮城には多くの親せき・いとこが住んでいます。自宅とはショートメールですぐに連絡が取れましたが、いとことは連絡が取れず、帰国するまでの間不安な思いでした。震災から5日目に帰国、何か欲しいものがあるか、家族に連絡するととにかく水が欲しいというので、広州白雲空港で、アメリカ製(?)の水2箱購入して帰国しました。

嫁の勤め先が保育園で、とにかく水が足りないとの話だったので翌日の土曜日に車で中央道を走り山梨まで行きました。適当な所でインターを降りてコンビニ・スーパー・自動販売機を何か所か見たのですが水はありません。再度中央高速にのり、諏訪で降りて水探し、販売機で少し見つけたのですが2本購入したら売り切れ、再度高速に乗り松本まで移動、スーパーで水入荷します、との声で1.5ℓを2本、他を回りもう少し購入する事が出来ました。

無料の足湯を見つけたので、少し休んで4時間かけて帰りました。水は子供達用にすべて差し上げました。

宮城県に住むいとこは、自宅が津波で流された事が分かりました。家族は皆無事と分かったのですが、町の半分は崩壊のような事でした。岩手県内陸の町で当時消防署の所長がいとこにいました。当時は全く連絡が取れませんでしたが後々に岩手行って聞いた話ですが(多くを語りませんでした)震災から半年間海沿いの町に部下数名を連れて遺体を探していたそうです。多くの遺体を見つけ、丁寧に扱って対応していたそうですが半年程度で、心が苦しくなり地元に戻ったとの話でした。

2020年のデータですが、東日本大震災により死者は1万5899人。行方不明者は2529名、自殺などの震災関連死3797名、避難生活者約4.8万人。このうちまだ700名程度が仮設住宅で暮らしているとの事です。こちらのデータ参考にしています。


東日本大震災から間もなく10年、気持ちが緩んできたころが一番危険のように思います。備え・準備の大切さを感じました。

また、新型コロナ感染症対策についても同じような事が言えるのではないでしょうか?感染対策をしっかりしている人と少し緩んできた人、のちに大きな差が出るような気がします。

東日本大震災発生5日後に帰国しましたが、帰りの飛行機の中で目にした多くの日本人が、沢山の水・インスタント麺や食料品を持ち込んでいたことを思い出しました。その多くの荷物を見て帰りの飛行機の中で涙が止まりませんでした。家族のため・友人のため・同僚のため・地域社会のために・・

我々が今一度何が出来るか考えな直す必要が有るかもしれません。


いつも最後までありがとうございます




震災された方々のご冥福と復興を心からお祈りいたします。



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