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#1 終わりなき旅

寮からの腐れ縁?とでもいうべき友人から一件の依頼が届きました。

「終わりなき旅について教えてくれ」

終わりなき旅、終わりなき足袋、尾張なき旅、終わりが来た日、冨樫描いた日(5/24?)。

どうやらその友人はアゼルバイジャンに滞在中の友人の営業でミスチルをよく聞くようになったらしい。

(あ、最近の就活のせいで影響と書こうとしたら営業になってしまった。最悪や。就活終わりたい。)

さて、どうすればよいのでしょうか。ミスチルなんていう伝説的な名前を出されたら下手なことも書けません。なんて思ってるフリをしてみたものの、本心ではそんなことは思っていません。そこに愛があれば大抵の言葉は攻撃的にならないのです。

そこに愛はあるんか。

はっ。愛こそが終わりなき旅なのでは??
そうだ、そうに違いない。

愛について語る時、僕は

そんな時は無い。

ただしあえて、愛について考えてみるならば、それは本当に終わりがない旅が始まってしまいます。

というところで終わりなき旅を始めてみましょう。

ところで、ここまで読んだ人どれくらいいる?
僕の予想だと5人ぐらい。今って活字が苦手な人が多くなってきてて、本なんか開いた日にはアレルギー反応が出るような人もいるらしい。

ある程度の本を読まずに育ってしまうと「人の心の機微」をキャッチする力が著しく低い大人になってしまう。(もちろん外れ値はあるものの)

愛とは心の機微を捉えるもの。
それは絶えず変化していくもので、終わりが見えないもの。

だから、1ページの活字が読めない人は、人の心が見えないのです。

見えないものを見ようとして、望遠鏡を覗き込んでみても、人の中身までは見えないのです。
もし見えたとしたら、それは嘘です。うそです。ウソなんです。

探し物は見つけにくいものなのです。

これを読んでる人の中に「あの人は自分のことを全て分かっている」「全て見透かされてる」なんて思ったことがある人。

それも嘘です。

自分の弱い所を「あの人」に指摘されて、それが的を射ていても、それはそれです。一部分でしか無いのです。

「あの人」は綺麗なお花畑のなかの弱った一輪の花を取り立てて「このお花畑は手入れがされていない」と、そう言っているのと同じです。

逆に「自分のことなのにどうして分かってくれないの」と思うことがある人。あなたも同じです。

万華鏡の次の模様を予想させるようなものです。
砂漠でジャングルを探させるようなものです。

相手に終わりなき旅を強要しない方が良い。終わりが見えないものはストレスが溜まる。

ストレスが溜まると

終わりが見えてしまう。お忘れなき様に。


しかしどうして、人は分かった気になってしまう。そうなってしまったら一度立ち止まって、次の扉を開いてみてください。


さて、ここまで書いてきました。

「終わりなき旅について教えてくれ」

ひとつの解釈違いが起きている気がして読み返してみると

「何が終わりなき旅なのか」という内容になっていました。

終わりの見えない旅はたくさんあります。
第二弾に期待して、あえて#1と題をつけようと思います。

#2では生きるためのレシピについて考えてみようかな。カタメコイメオオメで。


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