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3カ月越しのあとがき

公演反省も劇団のクラウドに上げたし、もういい加減『色々の季節2022-2023』に関するnoteを上げねばと思う。
いや、ほんっとにね、記録映像の編集まじで大変だったし、100分よ100分。その後すぐに専門学校の新生活が始まっちゃったし、まず書く暇が無いと。あと公演の反省なら山ほど浮かぶんだけど、『色々の季節』という作品と自分とを照らし合わせた振り返りとなると全然筆が進まないの。ほんとに。
とりあえず作品見ましょう。公開やめてって声が出るまでは公開する予定です。

あの脚本が、自分の心の筆が進む最後のブーストだったのかもしれないなんて思えるくらいに、脚本には色んなことを書き込んだ。自分の創作の積み重ねがもたらした全能感と、創作を始めるずっと前から積み上がっている劣等感の混じった心。相反する「こうありたい」自分の姿と実際の自分の姿。就活に学歴に親子関係に男社会に地域的な偏見。不条理への怒りも恥ずべき経験も自分の中にある差別的な物の見方も、今書きたいことを全て描写に詰め込んだ。
それでいながら、どうしても自分の話にしたくはなかった。自分の好きな劇団で、自分の好きな人達に関わってもらう企画なのだから、好きな人達が輝くものにしなければいけないと思う。自分のエゴが見えないようにと思い、キャラ一人一人に自分の人格を少しずつ分散させて、自分とは違う特徴を付与して、出来るだけ普遍的な話になるように頑張った。頑張ったんだよ。頑張ったけどめっちゃ言われたの、見てくれた知り合いに。「実話どのくらい入ってるの?」って。
ちなみに登場人物の中で一番ぶっちぎりでフィクションっぽい嫌~な面接官、あれはまじでいましたよ。気を付けてね。
正直、かなり自分の個人的な話をしてしまっているのに「これは普遍的な問題を取り扱ったものなのだ!」と自分にも劇団員にも言い聞かせていた節はある。改めて自分引くわーである。演劇使って人様巻き込んで自分の来し方を表現?ないわー、数ヶ月経ってから個人のnoteでこういうこと言い放っちゃうのとかもマジないわー、と思ってしまう。
やり遂げたと思う自分と反省や恥ずかしさがとにかくぶり返す自分とのせめぎあい。要素の多さもありやっぱりnoteに纏めようとしても纏まりきらない。『色々の季節』を経て1プロジェクトを終えた達成感以外に何を得たのか、よく分からないまま時間だけが過ぎていたのが4~5月のこと。

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先日、『だが、情熱はある』が最終回を迎えた。オードリーの若林と南海キャンディーズの山ちゃんが、下積みから売れた後まで、ままならないあれこれを抱えながらもがいて、漫才ユニット「たりないふたり」として漫才をやり遂げるまでのドラマ。ずば抜けた再現度と、実話ベースならではの胸に迫る切実さや人間模様の面白さ。久々に相当ハマるドラマに出会った。そこからTVerで配信されていた「たりないふたり」シリーズを観て、元々積読で持っていた若林さんの著書『ナナメの夕暮れ』を読破し、山ちゃんの『天才はあきらめた』は持ってないのでこれから購入しようとしている。(←この文章絶対山ちゃんの目には留まらないで欲しい。)

「若林は、自分の内面のことをよく考えるんだね」
若林が先輩芸人に言われた言葉だそうだ。エッセイに突然現れたこの言葉が僕の中に急にストンと落ちてきた。
以前のあちこちオードリーでも若林は「自分が車だとして、なんで周りと違う速度で燃費もこんなに悪いんだろうってボンネットを開けながらずっと眺めてた」と言っていた。
烏滸がましいが、自分と同じだ、なんて思った。そういう自己分析とか自分探しとかをする度に僕は「自分のことをやたら考えるのはなんだかんだ自分のことが好きだからではないのか?醜い、醜いぞ…!オェ……」なんて思っていた。でも、ただ「自分の内面をよく考える」だけなんだと言われると、そうだよなとあっさり飲み込めた。

ただただ、そういう人なのである。
いつからか自分の今の姿や心、価値観や立ち位置を考えて整理するのが自分の生活において必要なプロセスになっていた。さっきの会話で変な空気になったの何だろう、あの人に嫌われてる感じがするのは何故だろう、あの頃スクールカースト低かったのは、自分が社会に馴染めない気がするのは、自分の恋愛の傾向は、向いている仕事は……延々と浮かぶ「なぜ」や「なに」に答えをひとりで出して、その答えを疑って、検討し直してまた答えを出して……。ただただ、そういう人なのだ。

そんな日々を過ごしていると、自然と他人との関わりは減少し、誰とも会わない日が増える。大学がコロナ禍ドンピシャだったのがさらに拍車をかけた。友達とのzoomの雑談から上手く流れを作って考え事を話すことも出来ない。試しにツイッターに長文自己分析ツイートをしても反応は返ってこない。そもそも表に出すこと自体が憚られる。誰も求めてないものを文章に表現するのは恥ずかしい。だけど自分の中に確かにある思考のサイクルはぐるぐると回り続けていて、このまま誰にも見つからずにこの部屋の中で一人ぐるぐる朽ちていくのかな、なんてエクストリームなバッドに入ることもあった。ぐるぐるぐるぐる。摩擦で削れたカスが自分の心に溜まりまくって、心は常にごちゃごちゃに散らかっていた。

僕はずっと自分の姿を外に晒して確かめたかったのかな、と思う。心に溜め込んだ削りカスをまとめて、ちゃんと作品として形作って、外側に出した時に何が起こるのか。それを試して自分の今いる位置を確かめたかったのだ。他人と交わって、他人と作って、他人に見せる、そういう外側へのアプローチが人生に必要だったのだ。
だから『色々の季節』が始まった。

内側で自分のことを色々考えて、磨耗とオーバーヒートでおかしくなりそうになったら、外側の季節に目を向けよう。いや、目を向けられるようになりたい。季節に目を向けたら、今度は人に目を向けられるようになりたい。自分以外の人のことを考えて、意見を擦り合わせる。新しい見方が内側に入り込んで来て、またぐるぐる。新たに出た削りカスを作品に加える。意見をすり合わせる。時には削られすぎることもあった。異なる意見を持つ人に「伝われ…!」と念じながら意図を説明するのはそれなりに消耗する。消耗しながらも出来るだけ自分の見方は内に留めないようにした。疲れた時ほど出来るだけ家に籠らず外に出た。脚本の改稿は出来るだけネットカフェでやっていた。稽古オフの日は出来るだけ外に出て、公園のベンチとかで季節と他人を見ていた。寒空の下の公園にも色んな人がいる。防寒具の着太りが凄い老人、公園を近道に使うサラリーマン、冬なのにきゃっきゃと元気に走り回る子供たち。などなどなどなど。きっとこの中には、自分と同じように考え込んで内に内に閉じこもる癖がある人もいると思う。逆に外へ外へ行きすぎて自分の見方が分からなくなっている人もいると思う。
季節は誰の傍にも等しくある救いだ。誰もが一瞬立ち戻れる拠り所だ。
出来るだけ多くの人にこの「営み」を届けたい。そう思って『色々の季節』を作った。

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『だが』全話とTVerの『たりないふたり』を全編見終わって、どうしても彼らの最後の漫才「明日のたりないふたり」 を見たくて、ドケチ根性でずっと入らないでいたHuluに入った。無料期間を有効に使うべく、入会後即視聴した。
人間「若林」と人間「山里」が色濃く激しく舞台上で混じりあっていた。佐久間さんがラジオで言ってた「生き様芸人」ってこういう事か、と思った。自虐の竹槍をかなぐり捨ててアップデートを試みるもやっぱり身体に馴染んだ竹槍を選ぶ山ちゃん。散々山ちゃんを振り回しながら、自らもたりなさの剣で自傷をして傷だらけの若林さん。2人とも「たりない」中で俺はこんなもんじゃねえとじたばたもがいて、たりてる世界を目指して、でもどうしても埋まらない心の穴があって、「たりてるだろ」という声にも「まだたりない」現実にも苦しんで、でもたりない側でいたことがもたらした色んな素敵なことがあって、最後は「たりなくて良かった」と。
「たりない」脱却のために命を燃やして、「たりない」を肯定して終わる。
とてつもない漫才を見た。

「ただただ、そういう人である」ことをこうも苛烈に見せられると、感動を突き抜けて異空間に飛ばされるみたいな気持ちよさがある。
ドラマのナレーションで毎回「友情物語ではないし、サクセスストーリーでもない。そして、ほとんどの人において、まったく参考にはならない。」という文言があった。
確かにそうなのかもしれない。あくまでいち芸人の個人的な話でしかないものよりも、マスを楽しませたり考えさせたり感動させるために作られた普遍的に受け入れやすいストーリーの方が見る側の人生の参考になりやすいのだろう。
でも、個人的な話はすごく面白い。人の個人的な話ほどずっと聞いていられるものはない。実際「たりないふたり」では、そういう「ほとんどの人において、まったく参考にはならない」はずの個人的な話が、多くの人の心を動かしているのだ。その事実に僕はとにかく胸が熱くなるのだ。そして多くの人の心を動かしている時点で結局それはどこか普遍的なものにも繋がっている部分があって、個人と世界は完全に断絶している訳じゃないんだって、ひとりじゃないんだって希望が持てるのだ。

ふと我に返って思う。僕は自分の個人的な話を、じたばたと、命を燃やしながら、演劇作品にしようとした。「たりないふたり」とは規模感も実力も下敷きとなる人生経験も違いすぎる。でも自分の面白いと思うエンタメを1つ世に増やすぞという情熱は確かにあった。見てみたかった映像、見てみたかった宣伝美術、見てみたかった現代劇と劇中劇の交わり、今までになかった新しい試みを沢山行った。アンケートの感想は軒並み好評。YouTubeの記録映像は3ヶ月で600回以上の再生数。

制作期間はとにかく心の風通しが良かった。演劇を作っている間は、本当にひとりじゃなかった。この演劇をやるのが楽しいと言ってくれた人がいた。この脚本を面白いと言ってくれた人がいた。知り合いからも見ず知らずの人からも長文の感想が届いた。共感とか刺さったとか、嬉しい言葉ばかりだった。
すごく個人的だけどちょっと普遍的な、自分にとって最高の作品を作れたという手応えがあった。
『色々の季節』が終演して、ずっと大学時代長いこと肩にのしかかっていたものが取り払われた気がして、また新しい季節を始めていくための自信が沸いた。

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若林さんの『ナナメの夕暮れ』。1番最後のあとがきには、「自分の内面と向き合うことが、こんなにも億劫になったのはいつ頃からだろうか」と書いてある。歳をとり中堅芸人と呼ばれるようになり、冠番組を持って結婚もして子供も生まれた若林さん。冠番組のあちこちオードリーではこうも言っていた。「今は自分の車よりも他人の車の方が気になってしょうがない。だからあちこちオードリーでボンネット開けまくってる。」
いつか自分も、自分と向き合うのが億劫になる日が来るのだろうか。社会人になったら、結婚相手が出来たら、子供が出来たら、日常のあれこれに忙殺されて自分の内面への関心を持ってる暇など無くなるのだろうか。
もっと周りのことを観察して気が遣えるようになるのだろうか。人と雑談しながら自分の話と相手の話の割合をいい塩梅に出来るのだろうか。自分の思考のサイクルを、自分の内側にゴミを溜め込むのではなく、継続的に誰かと何かを生み出す方向に使えるのだろうか。
未来を想像すればするほど、『色々の季節2022-2023』という作品が輝きを増して見えてくる。本当にこの作品を世に残せてよかった。


最後にはなりますが、『色々の季節2022-2023』に関わってくれた出演者、スタッフの皆様、そして観ていただいた多くのお客様に改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


ホシダマサオミ

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