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台湾は中国なのか?⑥

タイトル画像のお二人は、
蒋介石の息子である
第3代目総統の、蒋経国(右)と、
第4代目総統の、李登輝(左)です。

因みに現在(2021年)の蔡英文総統は
7代目(7人目)の総統です。

李登輝さんは昨年2020年7月30日に
お亡くなりになられました。

97歳でした。

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今回は、蒋介石末期から
蒋経国、李登輝の時代を
見ていきます。


因みに前回の記事はこちらです。



◆蒋介石の長男 蒋経国(しょうけいこく)

前回、蒋介石の罪過について書きましたが、
功績もあります。

偏らないように、
功績についても触れておきます。

大東亜戦争時、台湾は、アメリカの支援により
国際連合の常任理事国になっていました。

敗戦国の日本。
ソ連は領土を分割しようと
提唱していました。

台湾


これに断固反対したのが蒋介石でした。

大きく4島からなる現在の日本の形を
守ったのは、蒋介石の力が貢献していた
と言われています。

また、台北にある故宮博物院は
蒋介石が中国本土から
目ぼしいものは、ほとんど持ち出し、
本土にある故宮博物院よりも
台湾の故宮博物院の展示品の方が
芸術性や歴史的価値が高いと
言われています。

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とは言え、蒋介石の台湾での
功罪は圧倒的に罪過が多かったのですが、

彼の総統任期中の死亡により
副総統だった、厳家淦(げん かかん)
2代目として任期を全うします。

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ただ、この人、
蒋介石のやり方を踏襲しただけで
単なる中継ぎ。名目上の2代目です。💦


第3代目に総統になったのは
蒋介石の長男、蒋経国(しょうけいこく)です。

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1970年代に入り、
未だ戒厳令下にある台湾でも
民主化運動への流れが生まれてきました。

1975年に父 蒋介石が亡くなり
長男である蒋経国は、
78年から総統となりました。

それまでの白色テロや、
知識人の殺害などに対して
国際批判を受けており、

民主化への流れを無視できない
状況でした。


政治に期待できないと分かった民衆は
政治関与を離れ、
経済発展に励んでいましたが、

80年代に入ると、経済成長に伴い
国民の権利意識が高まってきました。

民主化の主張があちこちで
唱えられ、

蒋経国が一歩外に出れば
民衆からの罵声や、
石を投げられることもあったようです。

蒋経国自身も、かつては
暗殺未遂事件に遭ったこともありました。


そして遂に彼は、
次の総統は蒋一族からは出さない
明言した上で、

実に38年間続いた戒厳令
1987年に解禁しました。


しかし翌年、彼は
後継者を言い残すことも無く
病死してしまいます。

副総統であった、李登輝
総統に就任することになりました。


◆李登輝総統のつくる民主化台湾

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1988年
李登輝の総統就任には
大きな意味がありました。

・台湾の本省人として
初めての総統であること。

・22歳まで、日本統治時代で
過ごしていたこと。

・国民党のやり方をずっと見てきたこと。


副総統までは牙を隠していた李登輝は
総統に就任すると、途端に手腕を発揮します。

40年以上に渡って改選されなかった
「万年国会」を解消

台湾

市長を選挙によって選ぶ
公選制を導入

そして、1996年には
総統さえも直接選挙にして、
台湾の民主化を実現するとともに、
李登輝自身も、総統としての
2期目継続に当選しました。

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しかし、李登輝は国民党員です。
あの残虐無比な国民党の一員なのです。

その話の顛末は次の章で。


◆蒋経国からのバトンが李登輝

実は、蒋経国は非常に頭の良い
総統でした。

彼が総統時代に
李登輝という本省人を
副総統に携えて
台湾再興のきっかけを作りました。


李登輝は元々は政治家になる気も
ましてや国民党に入る気もありませんでした。

農業のスペシャリストに
なりたかった。と話しています。

荒廃してしまった台湾を復興するには
先ずは食料の確保が最優先です。

蒋経国は、李登輝に農業の開発を
思う存分できるという条件で
国民党に入れ、しかも副総統にまでします。

李登輝は、大きく変えるためには
政治の力が必要であり、
農業開発に集中させてくれるなら。と、
政治家の道を選びました。


李登輝は徹底した現場主義でした。

例えば、お茶園を作り、
観光事業と結びつけることで、
国民のレジャー観光により、
生産側も正しい方法を守り、

中間での搾取も無くしました。

更には、販売網を確保するために
お茶の缶の設計まで行ったと言います。


「公」のために「私」を捨てることで
「国」を生かす

これをモットーに李登輝は率先垂範を
してきた総統でした。

李登輝は日本愛も強く、
経済成長している日本を模範に
台湾の民主化を進めていきます。

そして、国民党の一党政治では
国民の意見を反映できないとして
対する党である
民主進歩党(民進党)を作ろうとします。

ところが任期終了間際
1999年9月21日
台中を中心に
マグニチュード7.6の大地震が発生します。

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夜中の1時47分に地震が発生して
すぐさま命令を出し、
軍隊が各被害地域に配備され、
救援活動を始めたのは午前6時という
とんでもない早さで対応をしました。

更に、李登輝は翌日には、
市町村長一人ずつに国庫からお金を渡し、
人を救う
物資を揃える
水の補給
など、あらゆる救済の緊急対応に使わせる
資金を提供し、

不足分は中央政府から補充

という対応。


この緊急事故により、
国民党に対する新党の立ち上げは
あと回しになってしまいましたが、
ついに総裁の任期が終了。

次期総裁の陳水偏に託したのです。

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5代目総統 陳水偏


蒋経国が父、蒋介石のやり方を踏襲せずに
戒厳令を解き、民主化への足掛かりを付け、

李登輝が民主化の設計図を作り、

陳水偏が新政党の民進党を立ち上げ、
二党体制として後を継ぎます。

この3人のリレーが見事にバトンを繋いで
わずか15年余りの間に台湾は再び
平和を取り戻すのでした。


◆李登輝の対中国政策

李登輝は1988年から2000年まで
約12年半という、総統でありました。

初代の蒋介石を除けば、
歴代、最も長く総統を務めた方です。

同時に、台湾の過渡期とも
革命期ともいえる時期に
総統になったため、

自分個人の本音と、
公人(総統)としての立場と
色々と苦慮しました。


国際的に孤立していた台湾と
国交を求めて、積極的に
各国を訪問し、会見を開くも

「中華民国総統」ではなく
「台湾から来た総統」と紹介されたり、

オリンピック参加の呼称を「中華台北」など

なじられても、甘んじて受け入れ、
台湾の国民の自由と経済の発展のために
尽くしてきました。


特に領土問題で争ってきた
中国との関係には、こう発言しています。

中台関係を「少なくとも特殊な国と国の関係」と定義した。

また2013年に李登輝は、「私がはっきりさせておきたいのは、
『台湾は中国の一部』とする中国の論法は成り立たないということだ。

四百年の歴史のなかで、台湾は六つの異なる政府によって統治された。
もし台湾が清国によって統治されていた時代があることを理由に
『中国(中華人民共和国)の一部』とされるならば、

かつて台湾を領有したオランダやスペイン、日本にもそういう言い方が許されることになる。
いかに中国の論法が暴論であるかがわかるだろう。

もっといおう。

たしかに台湾には中国からの移民者が多いが、
アメリカ国民の多くも最初のころはイギリスから渡ってきた。
しかし今日、『アメリカはイギリスの一部』などと言い出す人はいない。
台湾と中国の関係もこれと同じである」と述べている
――WIKIPEDIAより引用

李登輝の二国論と呼ばれるものです。


かつて、蒋介石が唱えていた

「漢人不両立」や、
中華人民共和国の成立を認めない。
「一つの中国」とは中華民国のことである。

これらの主張をしている間は
いつまでも平行線であり、
争いが絶えない、
憎しみの関係になると李登輝は考えた。

しかし、独立宣言はハードルが高く、
香港のような「一国二制度」も
受け入れがたい。

台湾は中国の一部ではなく、
中国の代表を台湾人が選ぶことは無い。
逆に、台湾の代表も
中国人が選んでる訳でもない。

台湾は、台湾として
独立したアイデンティティーを
持っている。

だから、

台湾が改めて、
独立を宣言する必要はない。
既に台湾には
独立した国家体制が出来ている。

と、李登輝は説いたのです。


🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚

李登輝 元総統は非常に庶民的かつ
気さくな方で、生前、
僕も道を歩ている所を
数回見かけたしたことがあります。

穏やかな人柄の中に
政治家として国民に尽くしてきた
歴史に残る、
最高の指導者ではないですかね。

今の台湾の基礎のほとんどを
李登輝さんの時代に創ってきたのだと思います。

(つづく)

ありがとうございます。100円で、6本増やせます。 あ、増毛の話です。