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台湾は中国なのか?⑤

台湾には初代総統(大統領)である
蒋介石を称えるような

中正記念堂(台北)

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慈湖紀念雕塑公園(桃園)

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花蓮駅前の石像

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等のように、いたるところに
蒋介石にまつわる建造物や公園、
石像が建てられています。


その反面、



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落書きや、損壊などの事件も
何度も起きています。


台湾人にとって、蒋介石とは
どのような人物だったのでしょうか?

前回の記事はこちらです。



◆国民党がやってきた

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蒋介石が奇しくも逃げた場所は、
日本が50年にわたって築いてきた
膨大な資産を持ち、近代化された台湾。

日本の敗戦によって、
その資産は全て蒋介石率いる
国民党のものに変わりました。

蒋介石は、力を蓄えると
内戦のために大陸へ向かいます。
台湾のことは
国民党員に任せて、
遠隔操作で管理します。

台湾


日本の手によって造り上げた台湾の
官庁、学校、病院、軍事施設をはじめ
私有財産、民間企業、銀行の預貯金
備蓄米までもが、

戦敗国の財産だとして
国民党に没収されてしまいました。

なので当時、国民党は
世界一金持ちの政党と言われていました。


大陸から逃げ渡って来た、自分たち
国民党や家族、関係者を外省人と呼び、

元々台湾にいた民衆を本省人とと呼んで、
おもむろに差別をし始めます。

外省人にとっては、
近代化された台湾で、
レベルの違いに追いつけず、

大陸にいた時のように、
勝手気ままな無秩序の元
略奪や詐欺が横行し、
治安も乱れ始めてきました。

手を洗う、風呂に入るといった
衛生事情も悪化し、
コレラが流行したり、

賄賂を差し出さねば
役人は動かない

警察でさえ、罪もない人を捕まえ
保釈金を請求する始末です。


当時の国民党のことを
本省人である台湾人たちは

「去了狗、來了豬」
(犬が去って、豚が来た)

と、皮肉っていました。

これは、
日本人はよく吠えてうるさかったけど
我々を守ってくれた。
国民党が来たら、だた食い荒らすだけ。

という意味です。


汚職は当たり前
公私混同は当たり前
中国共産党との内戦のために
食料が大陸へ運ばれ、
深刻な食糧難に陥る。

急場をしのぐ為に紙幣を乱発して
破壊的なインフレが起こりました。

蒋介石率いる国民党が台湾に来て
わずか半年で、
ここまで廃れてしまいました。


◆民衆の怒り爆発

タバコは専売のため、
当時の台湾では「闇タバコ」という
税金を逃れて、闇で売ってる店が
隠れて営業をしていました。

国民党の取締官が
1軒の闇タバコ屋を発見し、
全て没収となりました。

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タバコ屋の女性店主は
「それでは明日から生きていけなくなる。
全部没収は勘弁してください」
と、懇願するも、

「ダメだ!」

取締官は持ってた銃で
店主を思いっきり殴りつけました。


それを見ていた周囲の人が
「殴るなんてひどすぎる!」と、
取締官を取り囲みます。

取締官はパニックになり
銃を発砲します。

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それが全く関係のない通行人に当たり
死亡してしまいます。

殴られたタバコ屋の女性店主も
翌日には亡くなってしまいます。


今までの国民党の横暴にうんざりしていた
本省人はこれをきっかけに暴徒化し
政府機関への攻撃が全国で広まります。

これが1947年2月28日に起こった
「二・二八事件」です。

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日本の2.26事件とゴッチャに
ならないように😅


◆白色テロ

二・二八事件で、民衆運動が
全国に広がりだすと、

国民党の行政長官の陳儀
運動の代表と協議の場を持ちました。

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事態は解決に向かうかと思いきや、

陳儀は、
南京で内戦していた蒋介石と連絡を取るために、
単なる時間稼ぎをしていました。

連絡を受けた蒋介石は早速、
1万3000の部隊を台湾に送り、

台湾

反抗する意欲さえ失せさせるために
戒厳令を敷き、
残虐非道な方法をもって
国民党軍は惨殺を始めました。

民衆に対する見せしめです。

その残虐さは、
耳や鼻を削いだり
手に針金を通して数人を束にしたり
人を袋に詰めて海や川に落としたり

処刑の前には市中引きずりまわし、
処刑後も市内に放置
まさに中国伝統の残忍な方法が
20世紀の中頃に行われていました。

わずか2週間で殺された人数は
2万8000人

当時の本省人の人口500~600万人ですから
200人に1人が殺されたことになります。

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特に、国民党の統治がしやすいように
知識人や、エリートの人材の根絶を狙って
徹底的に虐殺を行ったのです。


台湾人は、日本統治時代の終盤
政治参加も出来るようになると思っていましたが
敗戦で、国民党に入れ替わり、
法も秩序も、話し合いも出来ない
状況に置かれてしまいました。

「政権は銃口から生まれる。これが中国人」
当時の台湾人は囁きました。

この戒厳令は、
その後、世界最長の38年間続き

その間に逮捕、投獄された人数は14万人。
内、95%は冤罪だと言われています。


この事件は、
中国共産党の紅色のテロに対して
白色テロとも呼ばれています。

しかし、現在においても
教科書には1行もこの文字は出てきません。
歴史から抹消された事実です。


◆内戦で完敗した蒋介石

にわか軍隊で共産党と内戦をしていた蒋介石に
勝ち目はなく、大敗を喫します。

1949年には毛沢東が大陸で
中華民国に変わって、
中華人民共和国を建立します。

蒋介石はじめ、戦っていた国民党軍も
全て台湾に引き上げていきました。


元々中国大陸は、国民党が仕切っていた。

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以前の天安門の肖像画は蒋介石だった。

蒋介石は、自分たちが正統の「中国」だと、
大陸の領地奪回をあきらめず、
台湾内に、巨大な行政機構を組織しました。

いわゆる、秘密警察や、スパイ
密告制度を取り入れて
国民党の反体制派を撲滅して、

内戦への協力体制を国民に強いて
再度、大陸に乗り込む姿勢を
変えませんでした。


またもや、政府の強引なやり方。
国民も黙ってないだろう。

と思いきや、


元々の台湾人である本省人も
政府に楯突く者ばかりとは限りません。

人間は弱いものです。

反政府運動に出て殺されるよりも
国民党に巻かれた方がマシ。

徐々に、人々の関係性が
相手を信用できなくなり、
裏切りや、差別がある社会と
なってしまいました。


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国民党は洗脳教育を始めます。

台湾人を中華民族化するために
中華民国の復興
意識の強化
そして中華民国の正統性を洗脳していきます。

蒋介石を民族の英雄として
個人崇拝させるために、
全国いたるところに、
彼の銅像石像を建てていきます。


この頃の子供たちは
歴史は中国大陸のものを教えられ
台湾人は元々は中国大陸から来たと
嘘を教えられます。

さらに、
日本統治の時代は暗黒時代だと
教え込まれたのです。


◆蒋介石の面子

大東亜戦争時、台湾は、
アメリカの支援により
国際連合の常任理事国になっていました。

毛沢東に敗れた 蒋介石
共産党に敗れた 国民党

更には国民党の腐敗政治をみて、
アメリカは、遂に台湾から手を引きます。

1950年1月に「台湾不干渉声明」を宣言し、

蒋介石を完全に見限りました。
当時の米大統領はトルーマン(33代)でした。

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今後、共産党と国民党が争っても
アメリカは一切不介入

ところが、ラッキーなことに
朝鮮戦争が勃発し、
同年6月には、台湾海峡に
アメリカ第7艦隊が配備さることになりました。

ギリギリ生き延びることが出来た蒋介石でしたが
それでも共産党を倒して
中国を統一の野望は捨てきれません。

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国連から提言されていたことは、

中華人民共和国と
台湾という名での、
いわゆる「2つの中国」を認めよ。

ところが、蒋介石は、
あくまで「1つの中国」であると主張。
大陸も台湾も、中華民国であり、
国民党による1つの中国にこだわり、
国連の提言を一蹴してしまいました。


国際的にも、
中国共産党を認めた国とは
即時断交という手段を取ります。

これがたたり、
国連総会では、中共を招聘し、
中華民国を追放することになってしまいました。

日本やアメリカに説得されるものの、
「漢人不両立」と、言って
蒋介石は、かたくなに拒否。

*「漢人不両立」
漢の人間が二つの国をそれぞれ治める
などという事は成立しない。とし、
オリンピックへの参加なども、
中国が参加すれば台湾は不参加。
台湾が参加すれば中国は不参加という
面子第一の姿勢を取ってました。


台湾は国際的には孤立
内側は白色テロと戒厳令
が続き

台湾人は蒋介石の面子のために
犠牲を強いられる羽目になったのです。


あの時、蒋介石が「台湾」の名で
承認していれば、
おそらく現在台湾は
国として認めらていたかもしれません。


🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚🆚

少々、重たい内容になってしまいましたが
歴史を正しく知ることは、
思い込みや固定観念の呪縛が解け
正しい判断が出来るようになりますね。

(つづく)

ありがとうございます。100円で、6本増やせます。 あ、増毛の話です。