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「子どもが好き」というときの「好き」

「子どもが好き」と大っぴらに言う人のことを、私は注意深く見ている。
なぜ「好き」と言うのかに注目している。

見た感じが小さくて愛らしいという意味であれば、よく発されるのは「かわいい」であると思うから、わざわざ「好き」とまでは言わない気がする。

言動が幼い(拙いとほぼ同値)ところに「好き」ポイントを見出しているのだとすれば、それはなぜだろうかと深掘りしたくなる。
おそらく、今は大人として在る自分から見て、幼い頃の様子は「理解が容易い」し、「その後の発達が俯瞰できる(見通せる)」からではないかと思う。
つまり、「想像しやすい」ところに心地よさを感じて「好き」と言っていると考えている。

他方、成長していく過程にある、懐いてくれる、純真無垢である、などの方向性で「好き」というのであれば、それは危ういなと思ってしまう。
見ている(大人の)自分の思うように成長してくれない、懐いてくれない、嘘偽りが露顕した場合に、またそういう子たちに、それでも「好き」でいられるのかと思ってしまう。
やはり、これもまた「想像しやすい」ところの心地よさに満足した「好き」なのであろう。

私は、このような「子どもを想像しやすいものとして対象にして満足すること」は、したくないなと思って過ごしている。
子どもも他者であり、一個人の私なんかの想像を超える意思と世界をもっているのである。

その点で、やはり「子どもが好き」と、はばからずに言える人には、注意の目を向けてしまう。
その「好き」は、堪えられる強さをもっていますか? というのは、私が人を好きになって発せざるを得なくなりそうなときに自問するストッパー(安全装置)である。

最近は、そのストッパーを作動させる機会もないのだが。

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