まさお、読書感想文を書く① 笙野頼子「使い魔の日記」の感想

どうも、まさおです。

今年大学を卒業する文学部生まさおですが、社会人になると意識をしないと読書の時間を確保しなくなる可能性を危惧して、読んだ本の感想や考察をnoteに綴ることにしました。

おそらくこれで本を読むことを辞めず、尚且つあれ?あの本の内容ってどんなものだったっけ?というような現象が起こることはなくなると思われます。おそらくですがね。


ということで、今回は笙野頼子氏の「使い魔の日記」について感想を綴っていくことにします。

ただ「使い魔の日記」は以前レポートを書いた作品のため、今回の記事は少し感想というよりかは考察に近いものになると思います。もし担当してくれたゼミ先生がnoteを活用していた場合は身バレ不可避です。私の存在に気づいてしまった先生は、懐かしさを感じながら微笑ましく見守って下さると幸いです。



まず、「使い魔の日記」は短い話でありながら読後の読み切った感が凄く感じられる作品のように私は思います。

「使い魔の日記」は神話を日常に織り交ぜて展開している作品で、簡単にあらすじを紹介すると、蛇神の使い魔である「私」が、解放されるまで蛇神に殺されないように指令をこなしつつ、日常を過ごしていく話です。そして最後に、「私」が殺人犯であったことが発覚します。

脈絡なくない?って不思議に思った方や、神話が含まれる物語が好きな方は読んでみて下さい。

作者が何を描きたかったのかが読み取りにくい作品だと思われますので、ぜひ読んだ際は私の感想や考察を作品を読み解くための足がかりにして頂けたら幸いです。


はい、それでは感想兼考察に入っていきますが、「使い魔の日記」を読んだ際、私は神話を日常に落とし込んだ理由はどういったものなのか?という点に着目しました。

簡潔に結論を纏めると、作者が神話と日常を混ぜ込んだ物語を展開した理由として、無意識下で従っている国家システムへの気付きと闘争を描くためであったと考えました。

そもそも国家システムとはなんぞやという話にはなってきますが、まずは神話と日常の関係性について考察していきたいと思います。


日本における神話の一部分は、古事記や日本書紀に描かれ伝えられてきたものを指していると考えられます。

ですがこの本という形のモノに落とし込まれた神話は、国家によって生み出され収集されたものであり、国家のモノとして所有されてしまっていると考えられると感じます。

そして「使い魔の日記」の中においても、神話が国家に所有されているような、所有化の構図というものが適応されているのです。

使い魔が使い魔である間、一切同情はされない。人間が持つような要求を持てば、ありうべからざる行為として危険視され、ひたすら凶兆のように扱われてしまう(『群像短篇名作選』「使い魔の日記」339頁)

引用にもある通り、使い魔となった人間は、蛇神や蛇神を祀る家の所有物として存在しなければいけなくなっています。つまり、家という規模の小さい、一種のクニとも言える領域に所有されてしまうのです。

この家(クニ)に所有される人間という構図は、国家と神話の関係性を日常に落とし込んだ、縮図と呼べる構図になっていると考えれます。

神話と日常を織り交ぜて物語を展開した意図というのは、読者に大元の国家に人が所有されていることを暗示し、国家に支配されている人間という構図を示すためのものであると私は感じました。

人々は神話と日常の関係性を読み解くことで、支配体系下に属していることに気付くことができるのです。


支配体系下にいることに気付いたことによって、読者は隠れた国家システムに従っていることを察することができるようになります。

そして、作品に描かれる隠れた国家システムは、6つも存在します。

その6つとは、「家制度」「雇用制度」「貨幣制度」「条坊制」「夏休みの宿題」「刑事法」です。

「まず使い魔とは何か、ははは、それは家を絶やします。企業を爆破します。」、「貨幣も廃止するし、前衛詩を拵えて野菜を食べます」(『群像短篇名作選』「使い魔の日記」343頁)
まったく変な街だ。交差する坂道がどこも正確な十文字になっている。(『群像短篇名作選』「使い魔の日記」344頁)
夏休みの宿題が出来ていない夢を見てしまう。朝唸りながら起きて、暫くしてから、自分が使い魔である、という事は既に社会人だから、宿題はもうしなかてもいいのだとなんとか気が付く。(『群像短篇名作選』「使い魔の日記」347頁)

国家システムのうち、5つは引用した本文中に明確に示されています。家制度という雇用形態、雇用制度という企業による職の提供、また貨幣制度による価値の統一、条坊制による区画整理された土地、そして夏休みの宿題という教育上必ずこなさなければならないもの、これら5つです。

上記の5つは、すべて普段生活している中に存在する制度やモノであり、国家が長い年月をかけて成立させていった歴史のあるシステムとなっています。

何気なく生活している中に、国家システムは存在しています。そして結末を迎えることにより、「刑事法」という国家システムが提示され、これまでの物語が国家システムへの気付きを示すだけではなかったことがわかります。つまり、そのシステムへの闘争も含まれていたことに読者は気付くのです。

おまけによく考えてみるとその首は全部、自分が以前に殺した人間であった事に気付いた(『群像短篇名作選』「使い魔の日記」347頁)

この結末部分を読み取ることで、これまで挙げてきた5つの国家システムへの気付きを与えるだけでなく、作者が国家システムからの脱却を望んでいるということまでが、作者が読者に伝えようとしたことだったのではないかと考えることができるのです。

物語が展開され、殺人を犯しながらも捕まっていないという、制度内から逸脱した行為を取り、また法によって裁かれていない状況を結末に据えるというのは、国家システムへの気付きだけではなく、そのシステムそのものを否定し脱却しようとしていると考えられると思います。



長々と綴ってきましたが、「使い魔の日記」という作品は、作者の国家システムへの闘争が描かれていると私は考えました。

「刑事法」を否定したい、否定することを薦めるという意図はなく、読者には様々な選択肢があり、自由に生きることのできる日常を享受する権利があるということを、作者は示したかったのではないかと感じます。


今回の感想、考察は、考察よりで少し気難しい内容になってしまいましたが、次回からはもっとこの文章綺麗!読んでいて楽しい!といった語彙力が低下した記事を書いていると思います。


では、また。

(まだ)文学部生のまさおがお届けしました。

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