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(多和田葉子のベルリン通信) 「人影なく緑豊かな大学で」【紹介】2000字

2020年9月25日 朝日新聞朝刊
画:寺門孝之

 今年4月14日に紹介した「多和田葉子のベルリン通信」は、PV数:548をカウントしました。多和田人気を裏付ける数字といえるでしょう(因みに、二位が544で、私の朝日新聞「声」への投稿!)。
 そこで、昨日25日、朝日新聞朝刊で5か月半ぶりに掲載されたので、朝日を購読していない多和田ファンのために紹介します。
 私のエッセイは、「箸休め」ならぬ「筆休め」、いや「キー休め」で。

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 わたしの自宅から比較的近いところにベルリン自由大学がある。牧歌的な雰囲気のある三番の地下鉄に六分も乗っていれば着いてしまう。この線には普段なら学生がかなり乗っていて、緑に囲まれた「自由大学駅」でぞろぞろ降りていくのだが、新型コロナヴィールスのせいで大学が閉鎖されたまま夏学期は終わってしまった。今年は詩人パウル・ツェランの生誕百年、死後五十年にあたり、わたしも自由大学にレクチャーに呼ばれていたが来年に延期になってしまった。

 この大学は実は勉学や研究だけでなく、散策にも適している。キャンパス内にビルが立ち並ぶような都心の大学とは違って、本館や図書館など大きな建物の他にも教室やオフィスとして使われている古風なヴィラが広い範囲に点在していて、その間には小さな公園があり、民家の庭では梨や林檎(りんご)がのんびり熟し、見慣れない花が咲いている。その辺には商店街もなく交通量も少なく鳥のさえずりが聞こえる。

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 最近、自由大学で教えている友人からこんな話を聞いた。授業は今のところすべてオンラインで行なわれているのだが、顔を見せないで参加する学生が多く、それを苦にする教員もいる。ビデオ会議のシステムを使った授業に、学生は声と名前だけで参加することができる。教える側から見ると、黒い覆面を被った学生たちが教室に並んでいるみたいで、どうもやりにくい。学生たちになぜ顔を見せないのか尋ねてみると、家の中を見られたくないからとか、技術上の問題という答えが返ってきたそうだ。しかし顔だけ映って家の中が映らない設定にもできるわけだし、若い世代なら技術的な問題などすぐに解決できるだろう。修整した顔写真をソーシャルメディアなどで使うことに慣れてしまった世代はナマの顔をオンライン上で「晒(さら)す」ことに抵抗を感じるのではないか、という説も耳にした。

 史上初のコロナ学期が終わって夏休みに入る前に、大学側はこれからの方針を決めるために学生にアンケートをとった。オンライン授業については、「通学時間が節約できる」、「自宅の方が落ち着いて勉強できる」、「オンラインだと顔や服装にかまわず学業に集中できる」など肯定的な声もあった一方で、「休憩時間に友達をつくることができない」、「先生と親しくなりにくい」、「発言しにくい」などの意見もあった。授業の内容は充実していて勉強にはなったが「大学というフィーリング」が欠けていて寂しかった、という感想を書いた学生もいたそうだ。

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 10月から始まる冬学期に入学する新入生たちは、キャンパスにも入れず、同じ空間で同じ空気を吸って新しい友達をつくることもできない。もちろんオンラインで教員や授業内容は紹介されるが、元々学問というのは目に見えないものなのに、それを「場所のない」大学で、「触れることのできない」人間たちといっしょに学び始めなければならない新入生にはかなり豊かな想像力が要求されるだろう。

 わたしが久しぶりで自由大学のあたりを散策してみたいと思ったのは、キツネが出没するという話を何度か耳にしたからだ。人間がいなくなった町に動物が戻って来ることは現実にあるが同時にそれはわたしたちの心の底に常にひそんだ潜在的光景でもある。

 地下鉄は空いていて自由大学駅で下りると樹木の存在ばかりが目立った。秋の日差しが降り注ぐ中、去年来た時には学生たちがすわっていた芝生にも、石段付近にも人影がない。わたし自身はベルリンではなくハンブルク大学で勉強したのだが、やはりこのような芝生で授業と授業の合間に他の学生と話したり夢想にふけったりしていたとてつもなく長い時間が思い出された。あれが「大学というフィーリング」だったのかもしれない。

 芝生の上に真っ白な頭蓋骨(ずがいこつ)がぽつんぽつんと十個くらい置かれていた。アートだろうと思って近づいてみると、なんと直径三〇センチにも及ぶキノコだった。スーパーで売っているマッシュルームそっくりだがサイズだけが異常に大きい。人間がいないので誰にも踏みつぶされずにここまで大きくなれたのだろうが、なんだかぞっとした。

 ガラスの壁を通して学生のいない廊下が見える。その前の広場では母親が子供を二人遊ばせていた。ふと見ると、キツネが悠然と立っている。と思ったのは思い違いで、それはコヨーテの彫刻だった。トリックスターと呼ばれるこの芸術作品は二年ほど前に何者かの手で壊され、今立っているのは金属製の身代わりだと聞いている。木製のオリジナルは補修されて室内に大事に保存されているらしい。トリックスターは神話の中で物語を呼び起こす役割を担っている。このコヨーテはコロナ危機を乗り越えるどんな物語を呼び起こしてくれるのだろう。

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