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「追想」【エッセイ】二〇〇〇字(本文)

―「国葬」と、Sさんの死―

私は、以下の本文2000字を、500字にし、朝日新聞「声」に投稿しました(500字以下の制限)。さて、通るかどうか・・・。採用されたのは、2年半前の2020年1月25日。それ以降、2回ボツ・・・。打率が下がっているので、今回もダメかな。(-_-;)。しかし、政党、他の新聞社にも送り続けるつもりです。
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 Noteのコメント欄を使ったチャットで、「国葬」について話していた20日の夜。Sさんの訃報が。5年くらい通っている早大エクステンションセンターのエッセイ教室のクラスメイトである(懇親会の幹事仲間でもあり、クラスのお姉さん的存在だった)。元小学校教師。校長で定年を迎え、何年かして紀伊国屋書店で出会ったのがこの講座の、パンフレット。講座がスタートした10年以上前から通い続けていたらしい。週1回、年間通すと28課題。全て出し続けたと言っていた。講座と並行して、合唱団にも所属していて、その練習中に舞台で倒れ、そのまま旅立たれた。脳梗塞であった。連絡を受けた前日に火葬を済まし、郷里・新潟に戻って、近親者で葬儀を営まれるという。このご時世、多くのケースが近親者だけの葬儀になっているように、彼女の葬儀に駆けつけたい想いがあっても、それは叶わない。
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 かように葬儀の簡素化が進むなか、安倍晋三元首相の葬儀を国葬として、大々的に行うという(22日に閣議決定された)。第七波を迎えているというのに。確かに、安倍氏の死があまりにも衝撃的であったがゆえに、悼む声が多くある。国葬に反対する私でも、そのひとりである。
 しかし、「FRIDAY DIGITAL」(2022年07月19日)の記事に注目する。
 精神科医の和田秀樹氏は、安倍元首相の妻、昭恵さんは友人で、今回のことには心から哀悼の意を表します、との前提でこう話す。
「(国葬を執り行うことは)日本の将来にある種の危険をもたらすような気がしています。安倍氏の政策が美化されてしまう。安倍氏がすばらしい人であったという畏敬の念や彼の遺志をかなえてあげたいという感情で、たとえば憲法改正などという重要な政策を決めるのはとても危険なことです。感情と思考は切り分けるべきです」と。
 同日に発表されたNHK世論調査の「国葬として行う」ことの評価は、「評価する」:49%、「評価しない」:38%、「わからない・無回答」:13%であった。この「評価する」:49%が、国葬を行うに十分な民意なのか? 「評価しない」:38%は、少数なのか? 国葬を行う法的根拠は、ない。戦後直後まであった国葬令は、1947年12月31日限りで失効している。唯一特例として行われた吉田茂元首相のときも批判があった。曖昧模糊な国葬を特例として再び行おうとするのか。
 前掲の「FRIDAY DIGITAL」の記事で、自民党内からも「安倍元総理の”政治利用”では…」と、批判がある。
 14日の岸田文雄首相の記者会見で、安倍元総理の「国葬」を執り行う理由の中にこうある。「卓越したリーダーシップと実行力をもって総理大臣の重責を(長期間)担った」「国葬を営むことで、わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意を示したい」と。
 これに対して党内にも、「暴力に屈しないということと、安倍元総理を称賛することは、まったく別次元」という声がある。そして、全国紙政治記者は、「そもそも今回の事件は、背景が明らかになるにつれ、いわゆる”民主主義の危機”という問題とは遠いのではないかと言われています」と語る。合理的な思考ができるひとなら、自然な解釈だろう。
 つまり、安倍氏の死を、政権安泰の手段として使っているということである。党内最大の保守派派閥の長が亡くなり、その保守派をコントロールしなければ、岸田氏自身が危うい。利用できるものはなんでも使用する「したたかさ」を、自民党の議員も指摘する。
 この自民党幹部はこう続ける。「私なりに安倍という政治家を弔う」「この『国葬強行』は、国葬という形で安倍さんに最大級の哀惜の念を示すことで、自民党最大派閥である安倍派(清和会)と自民党コア保守層に向けた、岸田総理のアピールでしょう。党内を”岸田一色”にしようという政治的な思惑が見えます。だから、私は国葬には参列せず、私なりに精一杯、安倍晋三という政治家の死を弔うつもりでいます」と。
 テレビ朝日の社員であり、「羽鳥慎一モーニングショー」のコメンテーターを務める玉川徹氏が21日、「国葬」について、こう言及した。
 「とにかく異例だってこと。それなら、なぜ異例なことをしたいのか」と問いかけながら、安倍元首相の評価もいまだに分かれている点を指摘する。玉川氏は「安倍元総理がやった大きな2つのこと。それは集団的自衛権の容認とアベノミクスだと思う」とし、2点ともが評価が定まっていないとした。さらに、「その中で国葬にこだわるのはなぜか。一部の野党が(反対している)、という(羽鳥氏の)言葉があったけど、NHKの世論調査では38%の人が国葬については評価しないと言っている。38%は一部ではない」と国葬に反対する声が小さくない点をあげた。(政権に寄りのコメントが多い)政治ジャーナリストの田崎史郎氏が「保守層への配慮」と解説していることに納得した様子で、「自民党の、自民党による、自民党のための国葬という側面がないかという、疑いを持ってしまう」と、皮肉った。
 note仲間のひとりがこう言った。「(税金は使って欲しくないので)クラウドファンディングでやればいいのに。そうすれば、安倍さんを評価し、悼むひとたちの想いが伝わる。献花台にもたくさんの花束がくるので、あっという間に費用は集まると思います」と。つまり、自民党と国民有志による、「国民葬」か「合同葬」である。そうであれば、なんの異論もない。岸田首相の「保守派への配慮」「風見鶏」「民意を無視」なんて批判されることなく、支持率もさらに上がるのではないか。
 ただし、最後に言い添えておく。「旧統一教会と政治家の癒着」の問題解明は、可及的速やかな課題であることを。
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 私個人にとっては、安倍氏よりも、クラスメイトのSさんの死のほうが現実的な悲しみである。最大に哀悼の意を表したい。

 2年前。自費出版のエッセイ本『追想』が、あるコンテストで入賞できたと本を送ってくれた。講座で提出した作品の一部をまとめたものだ。その最終ページに掲載されている作品は、「生と死」だった。その作品を、最後に紹介したい。
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「生と死」
義姉の急逝を知らされた三年前の三月。受話器を置くと、体が締め付かれるように強張る。身の回り品をバッグに詰め込み、新潟に向かう。
正月は、孫達に笑顔いっぱい振る舞っていたのに。様々な事が、浮かんでは消え、「そんなばかな!」
死は、何の前触れもなく、突然やってきた。家族を一瞬にして、悲しみのどん底へ突き落とす。日常の光景が、当たり前のように駆け巡る。
湯治場で倒れた。せめて、夫婦一緒でよかった。あと数日で兄が退職というのに。これからに、胸弾ませていただろう。
生と死は、背中合わせだ。いつ、どこで、幸不幸に巡り合うのか。毎日が愛おしいような気さえする。限られた時間と思えば、焦りもするが、開き直る自分もいる。ほんの少しのときめきや喜びでいい。特別なことはいらない。
書けない文章を書きながら、ふと、深呼吸する。そんな時がいい。
三年という時間が、悲しみを遠ざけてくれる。健康でいたいと願うのか、前より早寝早起きになった兄。食事の用意。ジョギング。読書。生活リズムをつけようと、子ども達や、周りに励まされ、新生活の準備。
死は、新たな生を、踏み出せというのか。

(おまけ)

本日(7月24日)のウォーキングは、早稲田ルート。アートさんがコメントしている早稲田のキャンパスに立てられた看板を撮影してきました。(笑

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若人よ、闘え! いや、ジジイも。

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