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Web写真展「13(サーティーン)〜ハンセン病療養所の現在を知る〜」

 本日は、Web写真展「13(サーティーン)〜ハンセン病の現在を知る〜」にご来場いただき、誠にありがとうございます。

 こちらのWeb写真展は東京にある「国立ハンセン病資料館」で2020年9月19日から12月6日まで行われた写真展の「Web版」として、展示作品の中から厳選して、さらに国立ハンセン病資料館 学芸員の木村哲也さんの解説もおつけして、限定公開させていただくものです。

 (※2021年12月4日に特別展示「カラーで見る長島愛生園」のページを更新しました。
 今後の写真展開催の「支援」になる「有料展示」になっております。
 皆様からのサポート、何卒よろしくお願い致します。
 ぜひ最後までご覧ください。)

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(実際に行われた写真展の様子は「国立ハンセン病資料館のYouTubeチャンネルにトークイベントの様子が上がっています。)

 こちら「コロナ禍」で行われた写真展、ということで、多くの方にご覧いただくのが難しい中での開催にも関わらず、たくさんの方にご来場いただきました。
 改めてありがとうございます。

 しかし「今は東京には行けない。違う地域で開催して欲しい。」という声も多くあり、様々な地域での開催を目指している中、初の地方開催として国立ハンセン病療養所「邑久光明園」「長島愛生園」に程近い「瀬戸内市立美術館」で12/1〜12に行われることになりました。

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 やはり人の手で焼かれた写真「オリジナルプリント」と、画面上で見る写真、というのは「実際に生で見る油絵」と「ポストカードに印刷された油絵」くらいに違うものなので、ぜひ写真展にお越しいただいて、じかに写真を感じていただきたいですし、写真展を訪れたことをキッカケにそのままハンセン病資料館に赴いてもらいたい、という想いが強いのですが、しかし、もっといろいろな形で、多くの方にハンセン病について知ってもらいたい、ということで、この「Web写真展」をオープンさせていただく運びとなりました。

 国立ハンセン病資料館 学芸員の木村哲也さんのキャプションや解説を加えたWeb写真展ならではのコンテンツになっております。

 こちらを見ていただければハンセン病問題がわかる、と共に、これからも様々な地域で開催する予定の写真展「13」にお越しいただく際に、より理解を深めていただけるような作りになっているかと思います。

 「ハンセン病のことはまったくわからないから…」と構えずに、逆に何も知らないくらいで先入観なく観ていただけたら嬉しいです。

 ぜひゆっくりして行ってください。

ごあいさつ

 「場の記憶」というものがあります。
 
 その場所が長い時間の中で、いくら形を変えていったとしても、その土地が歴史の記憶を湛えている。
 
 ハンセン病療養所。
 
 その深く、長く、強く、重い「場の記憶」を収めるには8×10という、大きなフィルムのカメラしかないように思いました。
 そして、フィルムに収まった「場の記憶」をプリントする行為は、「目にみえないもの」を印画紙に焼き付ける、という難しい作業でした。
 しかし、暗い部屋で一人、写真を焼いていくうち、その「みえないもの」の正体が、ぼんやりと浮かび上がってきたのです。

 それは
 
「生命」
 
でした。
 
 ですが、見る人によってその「みえないもの」の正体は違うものになるのだと思います。
 
 
 みてください。
 
                                                      石井 正則

写真展「13(サーティーン)」
〜ハンセン病療養所の現在を知る〜

撮影場所
療養所名 撮影年
(キャプションは全て木村哲也さんです)

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収容桟橋
長島愛生園 2018年

1939年に設置。収容される患者は船でこの場所に上陸した。かつては入所者と職員の生活区域が厳密に分けられていたため、職員が通勤用に使う桟橋は別につくられていた。


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ヒノキの垣根
星塚敬愛園 2019年

入所者の逃走防止のため、1936年に初代園長の発案で植えられたヒノキの垣根。ヒノキにはさらに有刺鉄線が張りめぐらされていたという。園の外周を囲むように植えられていたが、現在は約200メートルのみが残っている。


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回春寮内部
長島愛生園 2018年

隔離された人々が最初に収容された建物。検査や入所手続きが終わるまでここで1週間ほど過ごした。現金などの禁止物品が取り上げられ、衣服もすべて消毒された。


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解剖台
大島青松園 2019年

亡くなった患者を解剖するためのもの。解剖室は取り壊されたが、近年海岸から引き揚げられて展示されている。


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堕胎児供養碑
栗生楽泉園 2018年

療養所では子どもを持つことが許されず、断種・堕胎が行われた。手前の碑は2007年に建立された堕胎児の供養碑。背景に写っているのは納骨堂。老朽化により1984年に入所者の寄付等で建て替えられた。


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重監房跡
栗生楽泉園 2018年

園内の秩序維持のため、特に「反抗的」とされる入所者が裁判を経ずに収監された懲罰施設(正式名称は「特別病室」)。1938年から1947年までの約9年間に93人が収監され、23名が亡くなったと伝えられる。


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藤本とし碑
邑久光明園 2016年

藤本とし(1901-1987年)は、失明を機に、多くの短歌、詩、随筆を発表。作品集『地面の底がぬけたんです』(思想の科学社、1974年)のタイトルは、ハンセン病の宣告を受けた時の心境を表現したもの。


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被弾した壁
沖縄愛楽園 2016年

沖縄戦のさいに被弾した壁が当時のまま残されている。戦時中の愛楽園は、進駐してきた日本軍の強制収容に加え、極度の食糧不足、米軍による空襲を受け、筆舌に尽くしがたい経験をした。


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邑久長島大橋
邑久光明園 2016年

隔離の島に「人間回復の橋」をというスローガンのもと、1988年に開通が実現した。愛生園と光明園の入所者が20年近くかけてとり組んだ架橋運動の成果である。


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旧火葬場
奄美和光園 2017年

1951年設置。1991年に園外の火葬場を利用するようになってから、全く使用されていなかったが、2000年に正式に廃止届が出され、慰霊祭が行われた。


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メープルケアセンター
東北新生園 2019年

園の将来構想に基づき、入所者の居住スペースや医療・介護施設を集中させるため、2007年に第1メープルケアセンター、2009年に第2メープルケアセンターが完成。当初は住み慣れた住宅を離れることに抵抗感をもつ入所者もいたが、東日本大震災のさいに被害が最低限に抑えられ、改めてその先見性が評価されることになった。


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多磨全生園 2018年

園内の桜は偏見や差別のまだ強かった1950年代後半に、入所者が地域住民とともに花見がしたいという思いを込めて植えた。現在、大樹に育ち、花見の時期には多数の人々が訪れ花見を楽しむようになっている。


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教会
多磨全生園 2016年

仏教やキリスト教のさまざまな宗派の施設が集まる「宗教地区」と呼ばれる一画。かつては入所した時点で、死に備えて宗旨を問われたという。心の安定をはかるために施設側が信仰を勧める一面もあった。


「日本のハンセン病政策と療養所の歴史」

木村哲也(国立ハンセン病資料館 学芸員)

隔離政策の始まり

 本展示の写真にうつっている療養所の建物や風景の意味するところを理解していただくために、日本におけるハンセン病政策と療養所の歴史をかんたんに振り返っておきたいと思います。
 日本におけるハンセン病対策の法律は1907(明治40)年に公布された「癩予防ニ関スル件」が最初です。浮浪者の中に含まれる患者を取り締まるもので、見つかった患者たちは全国に5つ創設された公立療養所に収容されました。ハンセン病患者が人目につく場所を自由に動き回ることは、日露戦争に勝利し、「文明国」の仲間入りを果たした日本にとって「恥ずべきこと」だとされたのです。
 国によるハンセン病患者の社会からの排除は、1931年(昭和6年)改正の「癩予防法」によって極まります。在宅を含む全患者を根こそぎ療養所に収容する「絶対隔離」が実施されたのです。これに伴って既存の5つの公立療養所は国に移管され、新たに8つの国立療養所がつくられ国立13ヶ所となり現在に至っています。
 当時は全国で「無癩県運動」が起こり、県を挙げて患者を隔離施設に送り込むことに躍起となりました。衛生行政を担当していた警察は、住民からの密告を奨励し、患者の家を一つ一つ特定していきました。ある日突然サーベルをさげた警官が玄関に現れ、互いに引き離されていく患者や家族の苦悩は一体どれほどのものだったでしょうか。
 
断種・中絶の強制

 この「絶対隔離」のほかにもうひとつ、見逃すことのできない事実があります。療養所内では、子どもを持つことが許されませんでした。法律に依らず非合法のまま、戦前から断種や中絶が行われ、戦後は1948(昭和23)年の「優生保護法」で正式に優生手術の対象としてハンセン病が位置付けられたのです。
 中絶された胎児は、菌の有無を調べるためにホルマリン漬けの標本にされ保管されました。2000年代にそれが問題となり、今では園内に供養碑が立てられています。
 1949(昭和24)年~1996(平成8)年に行われた断種件数は1,551件、堕胎件数は7,696件であることが判明しています。しかし、戦前から行われていた非合法による断種・堕胎の件数は、正式な統計が残っていません。
 このような政策がとられた国は、世界中で日本(と、その統治下にあった朝鮮)以外にありません。海外では、病気が治癒してしまえば子どもや孫に囲まれて過ごすことも不可能ではありません。しかし、日本では、多くの人が家族を持つことを許されず身寄りのないまま高齢化しているのが現状です。
 
懲罰施設

 「癩予防ニ関スル件」は、1916(大正5)年の改正で懲戒検束規定が設けられ、療養所の所長は司法手続き無しに患者を拘束し懲罰を与える権限を持ちます。これによって全国のすべての療養所に監禁室がつくられました。これらの多くは戦後、取り壊されましたが、菊池恵楓園と邑久光明園の2園には、現在も保存されています。
 特に「反抗的」だと判断された患者は、栗生楽泉園の「特別病室(重監房)」に送られました。施設が存在していた1938(昭和13)年~1947(昭和22)年の間に、合計93人が送り込まれ、23人が亡くなったと言われています。
 また、ハンセン病患者だけを入れるための菊池医療刑務所が、1953(昭和23)年に菊池恵楓園に隣接してつくられ、1997(平成9)年まで運用されました。この建物は、2019年夏に取り壊されています。
 
戦後の隔離政策の継続

 ながらく効果的な治療法のなかったハンセン病ですが、1943(昭和18)年、太平洋戦争真っ只中のアメリカで「プロミン」という特効薬の効果が確認されます。これを受けて世界の国々では隔離政策が廃止され、元患者の社会復帰が実現しました。プロミンは戦後日本にも普及し、ハンセン病は完治する普通の病気となります。にもかかわらず、「癩予防法」を廃止し、新たに公布された1953(昭和28)年の「らい予防法」により、日本ではあろうことか、隔離政策が継続されたのです。
 これには、当時療養所の園長を務めていた光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多磨全生園)の国会証言が大きな影響を及ぼしたと考えられます。彼らは患者の数が漸減(ぜんげん)していることを論拠に、隔離の正当性を訴えたのです。しかしこの主張に、科学的根拠はありません。ハンセン病は感染しても発症すること自体がまれな病気です。「石鹸と水道のある国にハンセン病は存在しない」とも言われています。患者の数が減ってきたのは日本社会の衛生状態や栄養状態が向上したからであり、隔離政策の効果ではないのです。このことを、ハンセン病の専門医でもある園長たちが知らないはずはありません。彼らの胸中に何があったのかは定かではありませんが、こうして科学的根拠に基づかない隔離は1996(平成8)年の「らい予防法」廃止まで続き、元患者たちの自由と人権は著しく侵害され続けたのです。
 日本で最初の公立のハンセン病療養所が設立された1909(明治42)年から2010(平成22)年までの102年間に、全国13の公立・国立療養所に隔離された入所者数の累計は、5万6,575人であることがわかっています。
 
火葬場と納骨堂

 全国に13ある国立の療養所では、1つの園で多いときには1,000人以上もの人びとが暮らしていました。一度入ると二度と出られない建前であったため、療養所には亡くなった人たちのための火葬場がありました。現在も彼らの遺骨をおさめる納骨堂(お墓)がすべての療養所に設置されています。
 現在、全国13の国立療養所入所者数の合計は、1,211名。平均年齢は85.9歳です(2019年5月1日現在)。遠からず、療養所の入所者はいなくなるでしょう。何千柱にのぼる人々は、だれが弔ってゆくのか。各園の納骨堂は、私たちに問いかけています。
 
開かれた療養所へ

 長年の隔離政策による人権侵害について、ハンセン病元患者が国を相手取って起こした違憲国家賠償請求訴訟で、2001(平成13)年、熊本地裁は原告側の訴えを全面的に認める判決を下しました。国による人権侵害が、司法によって正式に認定されるという画期的な判決でした。
 さらに、2019(令和元)年、ハンセン病家族訴訟に対しても、熊本地裁は原告の訴えを認める判決を下しました。国の誤った隔離政策によって家族にまで差別が及んだことが、司法認定されたのです。
しかし、これで問題のすべてが終わったわけではありません。偏見や差別は私たち一人ひとりの心に生まれます。法律はそれを規定はできても、取り去ることはできません。ハンセン病の元患者やその家族を、私たち社会は受け入れてきたと言えるでしょうか。歴史が投げかける問いを、常に、私たち自身に差し向け、自らの問題として考える。それこそがこの社会から差別をなくす、重要な方法なのではないでしょうか。
 2009(平成21)年に施行された「ハンセン病問題基本法」では、療養所の地域開放がうたわれ、これまで閉ざされていた療養所が地域住民とともに歩もうと生まれ変わっています。多磨全生園では1950年代に入所者が植えた桜が大木に育ち、毎年花見の時季には数多くの市民が入所者とともに桜を楽しんでいます。各地にある療養所でも、夏祭りや秋の文化祭には大勢の地域住民が訪れるようになりました。国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)をはじめとして、全国の療養所には社会交流会館などの歴史資料館がつくられ、誰でも見学ができるようになっています。皆さんも、ぜひこの展示を参考に、全国にある療養所を訪ねてみてください。

お礼とお知らせ

 最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 ここからは現在開催されている「瀬戸内市立美術館」での企画展示「カラーで見る長島愛生園」をWeb公開させていただきます。
 実際の写真展の方に時間を割いて来ていただいた方への思いもあるので、ここからは「有料展示」とさせてください。
 売り上げは今後、各地でこの写真展を開催するための費用とさせていただきます。
 「この写真展をサポートしよう」という気持ちで、記事をご購入いただけると嬉しいです。
 今後、この「有料展示」の更新を続けて、充実させていく予定です。

 何卒よろしくお願い致します。

 それではカラー写真でまた違いを感じていただければ。

 ご覧ください。

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¥ 500

サポートいただいたお金は当面、写真展「13」開催の費用等にさせていただきます。何卒よろしくお願い致します。