私の人生を変えた決断:人への投資とその成果

不安というほどでもないんだけど「このままの生き方でいいのかな?」と感じたときに、私はこんな事を考えながら動いた。

お金持ちとは?

野村総研かどっかが、「お金持ちとは」みたいな定義したことがあってその話。

野村総研かどっか(以下野村総研)がどんな仕事してるのか私はよくわかってないけど、曰く「我々はお金持ち相手に商売してるよね」ってんで「具体的にお金持ちってどういうことだろう」「自分たちが誰を相手にしているのか、その定義がいるよね」みたいな話が内部であったのかなかったのかは知らないけどとにかく「野村総研が相手にするお金持ちとは」みたいなのを内々で決めてたらしくて、ほいでその定義ってのはぶっちゃけ具体的に言うと「資産が3億円以上持ってる人で〜す!」とのことらしい。逆に言うと「それ以外は金持ちではありませ〜ん(我々野村総研が相手にする金持ちとはみなしませ〜ん)」とのことで、要は、我々の考えるお金持ちと違う。その辺の話をつらつらと。

本当の金持ちって何だ?

我々の考えるお金持ち、っていうと例えば年収1千万あるとか外車に乗ってるとかビトンのバック持ってるとかそんな感じになると思う。
「プププ年収1千万ごときでは金持ちとは言えませ〜んどんだけ意識低いんだよ」とかそういう話をしたいわけではなくて、とにかく、我々は貧乏人同士で金持ちだ貧乏だといがみ合ってる。
野村総研が考える本当の金持ち(以下この文章の中では本当の金持ちとか金持ちと表現)は、我々はうまく見えないようになっていて、貧乏人同士の我々から見える範囲の中で、誰が金を持ってるかの合戦を行っている。

医者も弁護士も、社長もユーチューバーもみんな貧乏人

本物の金持ちから見たら、医者だろうと弁護士だろうと、ベンツ乗ってる社長だろうと金持ちの定義には当てはまらない。
先に「資産が3億以上あったら金持ち」の定義をもう少し詳しく説明していく。実は3億という数字そのものには意味は無く、もっと解像度を高めていくと「資産だけで、この資産を切り崩すことなく、つまり資産から手に入る利息だけで30年は生きていける、これが金持ちの定義。3億円というのは例えばの額」ということになる。働いてる人は、大きく分けて二つの種類がある。趣味や遊びで働いている人と、生活のために働いている人。生活のために働いている人は、いくら稼ぎがあろうとも本当の金持ちとは呼ばない。ただのめちゃくちゃ頑張ってる人なだけ、ということだ。

この話にはもう少し先があって、つまり本当の金持ちはどうしなければいけないかとか、どうするべきなのかとか、あとはどうやったら本当の金持ちになれるのかとか、ま、いろいろあるわけだけど、今日ここから話したいのはそっちじゃなくて、「じゃあ我々金持ちじゃない人たちはどう生きるべきなの?」というほう。

我々から見たら、見た目金持ちに見える人たち(以下小金持ち)は年収1千万もらってたり外車に乗ってたり高級な寿司食べたりして妬ましいかもしれない。小金持ちは小金持ちのほうで、「チッ貧乏人がうっせえな我は金持ちナリ」とか思ってるかもしれない。フードコートで行列作って惣菜の10%引きのシール貼るまで並んで30円のクーポンせっせと貯めてる姿が滑稽に見えるかもしれない。
だが断言してもいいが、収入が増えただけでは小金持ちにしかならないし、小金持ちになっただけでは我々貧乏人の悩みは絶対に解決しない。収入が増えても、支出が増えるだけだ。同じように苦しい。何も埋まらないし何も満たされない。こんなところで妬みあうのは無駄だし、小金持ちは一瞬で貧乏人になる。というか小金持ちの本質は貧乏だ。

じゃあどうすればいいかというと、自分たちも豊かになることを目指すべきだ。結論から先に述べると、いろいろ挑戦したけど経済的に豊かになる以外にも豊かになる方法がいくつもあった。

最初はとにかく、このままではいけないので何かをしなければと思った。投資だ。投資をしなければいけない。
考えてみれば私たち一般の人々が普段目にするものは、ショッピングモールやコンビニに売られているものが多いが、それらの中には富裕層が求めるものはほとんどなかった。
それが投資だ。投資物件だ。
我々はテレビや雑誌やインターネット広告で連日連夜、あれを欲しがったりこれを欲しがったり調教され続けて、まんまといろんなものを欲しがったり手に入れられない自分を悲しく思ったり手に入れてる小金持ちをうらやんだり、笑えるほど従順に貧乏人の生き方をしているが、貧乏人の住む世界に金持ちが欲しがるものがひとつも存在しないことに気がつけたのはよかった。

同じお金でも実は大きく分けて二種類ある

お金を使って手に入るものは、大きく分けて二種類に分類される。
それは「A:お金が減るだけのもの」と「B:お金が増えるかもしれないもの」だ。
もう少し細かく分類すれば、「A-1:ただ単にお金が減っただけのもの」と「A-2:お金が減り続けるもの」と「B:絶対に増えるとは言えないけど増えるかもしれないもの」の三種類だ。

このうち、Aに分類されるものは、減ったお金がどこにいくのかというと、お金持ちのところだ。お金持ちは、貧乏人にAを買わせてお金を巻き上げるためにBにお金を使う。そして、お金が増える可能性のある商品は、一般の人々が簡単にアクセスできる場所にはほとんど販売されていない。

ということで、投資だ。投資をすべきなのだ。1000円でも2000円でも、あれば、そのお金を今すぐに投資につぎ込むべきなのだ。
ここまでが前段。

株式に投資してみて思ったこと

株はやってみたけど、自分にはあわなかった。時間が合わなかったのもあるけど(30代からはじめたがちょうど子供が生まれたりなどして、保育園の送り迎えなどの一番大事な時間に株取引に立ち会えないため)、一番のネックだったのが、一度しかない人生の時間を使ってこれを続けたとして、仮に成功したとして、10年後に待ってるのは株を安いときに買って高いときに売ることに長けたおじさんになるだけだよな、と思ったときに、それが自分の人生として完成したと言えるかどうか、自分が気に入らなかったからだ。

そう、投資というのは、金のほかにもう一つ賭けなければいけないものがある。それが時間だ。
時間は、ほっといても流れていくので賭けてる意識が低いかもしれないが、お金と違って確実に有限であり、絶対に一回しかない。
10年賭けたときに、必ず10年後の自分と対峙しなくてはならない。つまり絶対にツケを払わなければいけない。
そのときに、成功しているかどうか、それは誰にもわからない。ただ、確実に今の自分にコントロールできるのは「仮に大きな代償を払わなければいけなかったときに、どうだったら自分が納得してるか(もしくは納得できるか)」だ。これは自分で決められる。
このときに、自分は、「株を他人に高く買わせるおじさん」なのが嫌だったのだ。

ということで、投資とは「なりたい自分を決める」行為でもある。何に投資するかは何になりたいのかと同義だ。
そこで、私はこうした。

人に投資した

私には大恩師がいる。恩師ならどうするだろうと勝手ながら観察させてもらった。
そこではじめて気がついた。恩師は、私を含め人に投資していた。

おそらくなんだけど、恩師本人は技術に投資していると思っていると思う。だけど、恩師の生き方は人に投資をしているということに気がついた。これは素晴らしい発見だった。

単に投資というだけでも茨の道で、言葉には尽くせない大変なことがたくさんあるにも関わらず、特に人に投資をするのは、なかなか出来ることではない。ましてや自然にできるなんてことは、ものすごい信念をもっているかもしくは生まれ持って身につけた芯がものすごいのか、とにかく計り知れない。ただ、挑戦してみる価値はある。ものすごくある。
自分の人生を10年単位で費やして、あとになって振り返ったときにどうなっていても、「オレの生き方はこうだった」と胸を張って言える。これしかない。
実際には10年後にどうなってても、なんて考え方は御法度で、つまりは失敗してもいいやという気持ちで人に投資をしたとしたら投資されるほうも困るので、人に投資するという行為は、常に相手のことも考えていなければならない。
成功したら相手のおかげ、失敗したら自分のせい、と思えるくらいの心のおおらかさを持って挑みたい。

人生はリスクである。同じリスクを踏むなら納得のいく生き方を

私が言うまでもなく、生きているということはそれだけでリスクを踏み続けている。そのリスクを薄くのばす方法は世の中にたくさんある。保険も就職も学習も、そのリスクをできるだけ薄く引き延ばすサービスとして、より大きな存在に小さくお金や時間を差し出すことで、我々の前に存在している。それをどう捉えるかは個人個人の自由だと思う。
ただ、自分が自分のリスクを正面から認識することで、動ける道は大きく増える。その道が茨なのか崖なのかまでは知らない。でも道は増える。
どのみち進むしかないので、進んだ先でどうなったとしても後悔はない行き方をしたい。

どうなった?

経済的な豊かさではなく、人間的な豊かさが私の周りに訪れた。会社には次々と人々が助けを求めたり、協力するためにやって来るようになった。それぞれが様々なスキルや才能を持ち寄り、共に問題解決に取り組む姿が見られるようになった。

知らなかった。今までの私では、この豊かさを想像することすらできなかっただろう。たたお金を稼ぐだけではだめなのだ。そのことを知らなかった昔の自分では。お金は回すもの、とはよく言ったもので、「何に使うか」でお金の価値は決まる。そして何にお金を使ってきたか、で自分の人生は大きく変わる。そのことを、昔の自分と同じ人たちに伝えるために、この文を書いている。時代的に、もうしばらくはお金の使い方の価値は変わらないと思う。もしかしたら息子が大きくなる頃にはこの考え方は通用しなくなっているかもしれないけれど。

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