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読書感想文:セネカ『人生の短さについて』

 最近仕事の合間に『ローマ人の物語』(塩野七生著)、『古代ローマ人の24時間』『古代ローマ帝国1万5000キロの旅』(アルベルト・アンジェラ著)を読み返し、何度目か分からない古代ローマ・ブームが自分の中に訪れている。(同じくアンジェラ著の『古代ローマ人の愛と性』は現在読み途中)
 そうしてローマ人たちの偉大な業績に触れていくうちに、後生の人間によるものでなくローマ人が自ら著した書物に触れたいと思うようになった。
 といっても、カエサルの『ガリア戦記』とマルクス・アウレリウスの『自省録』は以前読んだことはあった。なので未だ未読のものを探したが、物理書籍ではそれなりにあるがkindleでは中々ない。本当ならキケロの書簡集か『国家論』『義務について』を読んでみたかったが、これも電子書籍化されていなかった。
 という訳で、電子書籍で購入できた数少ないローマ人の手による著作の中にあった、セネカの『人生の短さについて』(光文社出版・中澤務訳、本には他2篇が収録されている)をまず読んでみることにした。

 人生の短さを嘆く人々に対し、その人生をどのように生きれば長く幸せになれるか説いた書物である。
 全体を読み通した感想としては、その鋭い洞察の数々は流石ラテン文学白銀期の代表セネカ、といった感じで納得し唸らされるものだった。ほんの一例を取り上げるだけでも、





『我々は短い人生を授かったのではない、我々が人生を短くしているのだ。我々は人生に不足などしていない、我々が人生を浪費しているのだ』
『人は誰しも、未来への希望と、現在への嫌悪につき動かされながら、自分の人生を生き急ぐのだ』
『生きるということから最も遠くに離れているのが、多忙な人間だ』
『生きる上で最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。あなたは運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう』
『あなたは、どこを見ているのか。あなたは、どこを目指しているのか。これからやってく
ることは、みな不確かではないか。今すぐ生きなさい』


と、本書は数々の箴言に満ちている。
 だが、同時に感じたのは、セネカの理想通りに生きることは、古代を生きたローマ市民も現代に生きる我々日本国民も、非常に難しいだろうということ。
 セネカは自分のための時間、他人のための時間を区分けする。そして後者の時間は自分の人生には含まれず、費やした時間だけ自分の人生の貴重な時間を捨てていると説く。そして幸福な人生を生きるためという点において、仕事上の他人との付き合いを徹底的に否定する。

『誰もが、ほかの誰かのために使い潰されているのだ』
『多忙な人はみな惨めな状態にある。その中でもとりわけ惨めなのが他人のためにあくせくと苦労している人間だ…他人に眠るのに合わせて眠り、他人が歩くのに合わせて歩く…そんな人たちが自分の人生がいかに短いかを知りたがったなら、その人生の中で、自分のものだといえる部分がいかに小さいかを考えさせればよい』


 そして幸福な生き方とは何かを、セネカは明確に本書に主張する。それはありとあらゆる世俗の営みを捨て去ること、つまり仕事を辞めて自分の時間を全て哲学の学びと英知の探求に捧げることだ。セネカはそうすることで自分の人生を自分のためだけに使うことができるようになり、幸福な人生を送れると説く。
 だが古代のローマ市民にも、現代日本国民も、それができる人間はどれほど少ないだろう。多くの人間はセネカが指摘するように、他人との関わりに煩わされて生きていかざるを得ない。そうしなければ生きていくための賃金が得られず、飢え死にしてしまうからだ。仕事をしなければセネカの言う人生の時間の有効的な使い方にたどり着く前に物理的な死を迎えるだろう。
 しかしセネカは多忙な仕事を辞めたくても辞めることができない大多数の人たちには何も言ってくれない。

 こうして感想を書くと、セネカのことをあくせく働く一般人は視界に入らない哲学オタクのお貴族様のように感じるかもしれないが、本書の内容がそれだけに終始するならば、現代まで読み継がれることなく暗黒の中世に散逸していただろう。
 本書に提示された生き方を全て実行することは確かに難しい。だが、それでも有用な助言は本書に数多い。
・他人に依存したのに顧みられないことを嘆く愚かさを説く
 自分に目を向けず、自分の声に耳を傾けなかった人、つまり自分自身のために時間を使わなかった人が、他人が自分のために時間を割いてくれないことを嘆く理由はない。





『(おまえがその人に依存したのは)他者と友にありたかったゆえでなく、自己と共にあることに耐えられなかったがゆえなのだから』


・定年退職後に希望をかける者への叱責
 そんなに長生きする保証がどこにあるのか? 不死の神々のように振る舞うのはやめろ。生きることをやめなければならないときに、生きることを始めるのでは遅すぎる。





『だが、あなたがそんなに長生きする保証がどこにあるというのか? あなたの思い通りに計画が進むことを誰が許したというのか?』


・過去を見つめることの重要性
過去こそ何人も干渉することのできない聖域である。多忙な人ほど過去を振り返らず、自分の失敗を気に病み振り返ることを嫌がる。だが、自分の過去を見つめなければ、現在という短く移ろいゆく時間を受け止めることはできない。
・ただ年齢を重ねていくことの無意味さ
 ただ年齢を重ねただけでは「生きてきた」とはとても言えない。





『「我らが生きているのは、人生のごく僅かの部分なり」と、なるほど、残りの部分はすべて、生きているとはいえず、たんに時間が過ぎているだけだ』


・生まれの親は選べないが、学問の親は選べる
・オタク?批判
 本文中で批判されたのは些細なことにこだわる文学オタクと歴史オタク。セネカにとっては世界の真理の探求こそが真に自分のため、そして世のために役立つ学問であり、そこに結びつかない知識は学問とは見なされない。





「なんの役にも立たない雑学の研究に熱中する人たちは、いかに一生懸命であっても、なにもしていないのと同じだ」


・ジョブスのスピーチの元ネタか?





『しかし、全ての時間を自分のためだけに使う人、毎日を人生最後の日のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日を恐れることもない』


 そして本書の中でセネカが最も主張し、我々が最も実行することが難しい、他者との関わりからの離脱。これもセネカの言っていることは確かに一理ある。
 我々は他人のために時間を使い、生きるための賃金を得る。だがセネカは時間こそが最も価値があるものであることを主張する。確かに、時間で金を生み出すことはできるが、金で時間を買うことは絶対に不可能だ(金で時間を「節約」することができるかもしれない)。なぜなら過ぎ去った時間は絶対に戻ることはない。誰かに捧げた年月も戻ってこない。そしてセネカはこうも主張する。あなたの人生はいつ終わるともしれない不明瞭なものである、その総量を確認することもできないものを運用するのだから、もっと慎重になるべきではないか。
 そしてセネカはこうも言う。

『生きることを知るのは、何よりも難しいことなのだ』
『生きることは、生涯をかけて学ばなくてはならないのだ』


 生きることを教えてくれるのが、セネカ曰く過去の大哲学者たちだ。彼らの本を読み込むことにより、私たちはどんなことにも馬鹿にしたりせず相談に乗ってくれる、そして生き方の手本を示してくれる信頼すべき友を得られるという。

『自然は、われわれに、[過去の]全ての時代と交流することを許してくれる』


 確かにその通りかもしれない。セネカの主張をあれこれ読み解き、教えの意味と自分への適用を考える時間は楽しかった。

 最後に歴史的なことを考えるならば、本書はセネカの著作としてはかなり早い年代(西暦49年)に書かれている。彼が皇帝ネロの家庭教師となるのが48年、そしてネロの皇帝即位が54年なので、本書は彼がネロの補佐役としてローマ帝国の国政に大きく関わる前に書かれた。
 本書は当時ローマ市への穀物供給の管理者であったパウリヌスという人物に宛てられた手紙である。そこでセネカはこう書いている。





『あなたの仕事(首都への穀物供給管理)は確かに尊敬すべき仕事であるが、幸福な人生をもたらしてはくれない』


 哲学者セネカの最期は、愛弟子であったネロによって、自身の暗殺に関与した嫌疑をかけられたことにより自死を命じられるというものだった。自殺のため手首を切ったものの、死にきれず、苦しんだ末の落命であったと史実は伝える。セネカが最期に思い浮かべた言葉は、もしかすると自身がパウリヌスに送ったこの言葉だったのかもしれない。

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