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リラックスする事で超越した瞬間に繋がる

随分と長い事、瞑想を続けてきました。ヨガのスタートが10代、そのすぐ後に瞑想の世界に入りました。

そこからの学びや気づきは言葉にならないほど奥深い…しかし それらを日常に取り込むのには かなりの客観性とバランスが必要だと感じています。


人は自分がより成長する事で、抱えている劣等感、罪悪感、他にも様々な悩みが無くなると考えます。

良さそう!と思うものに飛びつく、のではなく、「得ることで解決すると思う」その自分の動機に まず降りて行く…そして、そもそも得た!という感覚が何か?を知る必要があります。


人は放っておくとマインドに支配されストーリーや条件にハマります。そこに真実はありません。それらは実体のないものだったりします。


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そもそも、そこに気づき、捉え始める事自体が稀なのだ、と最近思うのです…

「私」と感じる存在は、エネルギーの凝縮によって思考が作り出した幻影の様なもの…そこから抜けるのは容易な事ではないからです。

それを見抜くのは「私」ではなく、本来の「目覚めた純粋意識」
あるいは「全体意識」とかとか呼ばれるもの、つまりは「私」を超えたものです。


私は「イマココ」に自我としてに存在しています。でもそれらが「私」とイコールではなく、「私」はそれらの存在を知っているもの…、なのではないでしょうか?



五感を持つ肉体と自我と言う存在をごっちゃにして 悩み的なものが起こっているのでは?

全てを私としてしまっているのでは?

この次元の乗り物はそもそも「私自身」ではないと言うのに…

そんな風に思います。

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悟れば僧や聖人君子のようになると思う方も多いのですが、それはファンタジーな空想…そもそも聖人というイメージ自体が概念です。


なぜ人は
そのような理想的な人がいる、と思うのか?

それは人には克服すべき欠点や醜さがあると感じているからです。

超越した人物に存在して
欲しいのです。

…でも残念ながら
そのような人はいません。

「こういう人」と呼べるような固定した人ではなく、ただ「イマココ」において、何らかのエネルギーが見えたり消えたりしているだけです。それが瞑想を続けてきて ぼんやりとわかったこと…

ほんとに時間が
かかりました…



実体のない自分を
変えようとしても無理な話。

なので…


日々、ガチガチに固まらず
なるべく力を抜くように心がけて
ジャッジからは離れる。

あるがまま、自分に正直にいる。
そんなを感覚が必要かなと思います。

その「あるがまま」をいつでも実践できたら良いのですが 
出来ないなら出来ないなりに
又悩みを抱えてしまうのも私達人間。

出来たり出来なかったり
するものなのだ。

だって実体はないんだもの…

と 知る事。
明らかにすること
あきらめること。

まさに
人類アバター説
仮想空間説、になりますが…


実体のないこの世界を
どちらでもOKという
リラックスした視点で生きる


それが たまーに
あなたを
ひらめきや
想像もしていなかった展開
に誘うのだと思うのです。

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